2024/12/29(日) 『 GO!キリスト者達よ 』マルコの福音書1章16~20節:小野寺 和俊 伝道師

もうすぐ今年一年が終わろうとしています。あっという間でした。毎年、1月の頭には、今年はこういう年にしよう!と目標を立てます。しかし、一年が終わろうとしている時期にその立てた目標を思い出そうとしても忘れてしまっている事が多々あります。達成できた事もあるかもしれないし、駄目だった事もある。でも大事なのは一日一日、どれだけ僕は主に、イエス様に聞き従ってきたのか。それを思います。皆さんはどうでしょうか。

今日の聖書箇所は、イエス・キリストが十二弟子である、ペテロ、アンデレの兄弟、ヤコブ、ヨハネ兄弟に出会い、弟子にする所です。

17節から18節をお読みします。“イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。

「すぐに網を捨てて、イエスに従った」とあります。シモン(ペテロ)とアンデレはすぐにイエス様について行ったのです。

その後、19節~20節 また少し先へ行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。

マタイの福音書では、同じ場面を「彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った」とあります。

やっぱり「すぐに」です。仕事中にも関わらず、職人にとってとても大切な仕事道具を置いて、パッとついて行ってしまう。ここに大注目です。この即効性と言うのでしょうか。間の良さと言うのか、「はい!OK!」という様な感覚。だから、イエス様はこの兄弟達の事を特別にというか、ここぞという時、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人に声をかけます。決してえこひいきををする様な方ではないのですが、人の子、私達と同じ人間として過ごされたので、人間関係において、気が合う、合わない、好き、嫌い?の様な感情を持っていたのではないかと思います。それ故に聖書の話にはリアリティを感じるし、感情移入ができるのだと感じます。

このガリラヤ湖の出会いの前に、ペテロの弟のアンデレがイエス様に出会い、ペテロを紹介している所がヨハネの福音書には書かれています。この時、ペテロはイエス様に会って何を感じていたのでしょうか。実に興味深いです。

とにかく、「すぐに」従ったわけです。(straight away/すぐに、直ちに)この人たちって、ハッキリ言って「一筋縄ではいかない」人たちだったと言うことが聖書を読むと分かります。ペテロに関しては数々の名ズッコケシーンが残されているし、ヤコブとヨハネはボアネルゲ「雷の子」なんてあだ名がついている暴れん坊兄弟だったのではないかと。そんな彼らがパッとついていってしまう。何故でしょう。一言で言えば理屈ではないのですが、やっぱりイエス様に魅力があったのです。カリスマ性というものでしょうか。「カリスマ」の語源は古代ギリシャ語から派生したもので、恵み、好意、喜び、から派生した言葉です。またカリスマという言葉の持つ意味は超自然的、超人的、神から与えられる力という意味があります。正にイエス様の持つカリスマ性は神からのもの、、というか神ご自身なので、元祖カリスマとなるわけです。カリスマオリジナル。これに比べると、世に言うカリスマ性なんてものは軽いものに感じます。

そもそも人が人に魅かれる。その事にハッキリとした理由はないのかもしれません。

イエス・キリストのイメージとはどんなものでしょうか。ビジュアルですね。一般的には絵画に描かれている、あの顔ですかね。ヨーロッパ人よりですよね。

僕の職場で一緒に働いている女性がこんな事を言っていました。「小野寺さん、私イエスキリストって好きよ。だって、ジョージハリスンに似てるんだもの」僕はこれを聞いた時、成程なぁと思うと同時に、そういう顔が嫌いな人にとっては、あの所謂、絵画に描かれている顔のイメージというのは、イエス様を受け入れる上でマイナスになってしまうものなのかなぁと考えました。人というものは、自分の好みの顔というものがあるからです。即ち、伝道において、イエス様の顔のイメージは有利にも不利にも働く場合があると思いました。しかし、神様の働きにおいて、そんな事問題ではない!と今は感じています。イエス・キリストはユダヤ人である事は間違いない。では、ユダヤ人の顔なのか、、。日本人でも外国の人の様な顔をしている人はいます。実際どんな顔なのか分からないのが本当のところなんだと思います。

体つきはどうでしょうか。大工さんだったので結構ガッチリとした体型だったのだと思いますが、どうでしょう。漁師であるペテロ達を一発で従わせるわけですから、見た目は軟弱ではなかった、と想像します。これらはあくまでも見た目の話ですが、神様から与えられた、人を惹きつける魅力を持っていた事は間違いありません。

イエス・キリストについて行く、従うとはどういう事でしょうか。

ペテロ達は「すぐに」ついて行きました。(straight away/すぐに、直ちに)この事を思う時に、旧約聖書に書かれている、アブラハムとサムエルの信仰を思い浮かびます。

信仰の父と呼ばれるアブラハムは、神様に本当に忠実な人でした。神を恐れていたのです。創世記22:1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。

ここまで、アブラハムにとって、主の道を歩む事が人生の全てでした。数々の苦難、試練を神様に従いながら乗り越えて歩む人生。そんな中、やっとイサクという息子が与えられた。しかし、その愛すべき息子を殺して、しかも焼いて生贄にしなさいと神様に告げられる。自分の子供を生贄に捧げる、、。想像を絶します。しかし、アブラハムはその神様からの命令を受け入れるのです。

そういった最中に「はい、ここにいます」と答える。これがアブラハムの信仰なのです。この後、息子のイサクに火をつける直前、刃物を持って屠ろうとした、その時、神に名を呼ばれ、再び同じように「はい、ここにおります。」と答えるのです。

また、イスラエルの最も偉大な士師と呼ばれたサムエルは少年時代に神様に名前を呼ばれ、アブラハムと全く同じ様に「はい、ここにおります」と答えます。サムエルはこの時、エリという大祭司、イスラエルの士師に弟子入りしていたので、そのエリに呼ばれたのだと勘違いします。そして、神様から3回、名前を呼ばれ、エリの所に行った時、エリは、この子は神に名を呼ばれているのだと気づきます。そして、4回目に神に名前を呼ばれた時、神様はサムエルに、これからエリの上に起きる事を予言されます。

サムエルの「はい、ここにおります」という答えは彼の信仰を表しているのです。彼の純粋さの表れなのです。そして、ペテロ達の「すぐに」ついて行った事と同じ意味合いを持っているのです。

アブラハムしかり、ペテロ、ヤコブ、ヨハネしかり、神様はそういう人たちの事が好きなのだと思います。アブラハムはちょっと違うかもしれませんが、おっちょこちょいだけど素直な人、問題はあるけど憎めない人みたいな感じの人が聖書には沢山登場して、神様からの恵みを受けています。

ここでも分かる事、それは、旧約聖書の時代、神様は預言者を通して言葉を語り、人類にその御思いを告げられました。

しかし、新約聖書の時代、イエスキリストがお産まれになった時からは、生きた証、数々の奇跡、言葉を通して、神を知る様になり、十字架にかかり死なれ、復活し今も共にいてくれている、、この凄さを本当に感謝したと思います。

「呼ばれる」と「一緒にいてくれる」どっちが嬉しいでしょうか。しかもいつも、いつでも共におられるのです。ハレルヤ!そして、ジーザスは私達の事をなんと「友達」と呼んで下さるのです。だから私たちも弟子達の様にイエス様について行くのです。

マルコ8:34~35 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。

イエス様は弟子達にこう告げました。

だれでもわたしに従って来たければ、自分の十字架を負う。一般的に「十字架を負う」「十字架を背負う」といった言葉の意味合いは、自分の犯した罪、消えない過去の傷、心の痛み、過ちを背負って生きていく、、みたいなイメージがあると思います。罪というものを考えた時、そのような意味もあるとは思います。

しかし、イエス様の十字架の贖いによって、私たちの罪は許されました。それでもなお、引き続き罪を犯し続ける僕の為に、復活され、今もともにおられるのです。では、「十字架を負う」とはどういうことか。

それは「自分を捨て、人の為に生きる」ということです。

先程お読みしたマルコ8:35には「わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」と書かれています。イエス・キリストは、わたしを伝える為に死んでくださいと言っているのです。勿論、肉体的に死んでくれと言っているのではありません。自分を捨て、自分に死に、わたしについて来なさいと言っているのです。洗礼式というのはそういうものです。一度死ぬのです。しかしこの先、もしかしたら、イエス様を伝える為には生命を失うことがあるかもしれません。昔の殉教者たちの歴史を私たちは知っています。

人の為に生きる、この事について考えた時、どうでしょうか。イエス様はこの後、パリサイ人との論争の中でこう告げます。

マルコの福音書12:31 第二の戒めはこれです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」これよりも重要な命令は、ほかにありません。」

パリサイ人の「結局、一番守らなくてはいけない戒め、律法とはなんですか?」という質問に対してこう答えました。第一の戒めは「主は唯一であって、その神を心を尽くし、いのちを尽くし、知性をつくし、力を尽くして愛しなさい」と言います。これはモーセの律法が集約されたものです。

人の為に生きる、隣人を自分自身の様に愛する、、これは所謂「THE キリスト教の教え」です。正直これを聞いた時、ん!?難しいなぁ、、と思った事はないでしょうか。嫌なヤツとかいるし、、。正直言って僕自身、そんな愛は毛頭持ち合わせておりません。それが僕です。

しかしイエス様がおっしゃっている事はこうなのです。

自己愛を捨てて、人の為に生きる。隣人を愛しなさいと言っている。これは、人々にわたしを伝えなさい。福音を述べ伝えなさい。伝道をしなさいと言っているのです。イエス様を伝える事が、人の為に生きて、自分を捨てて、人を愛すという事なのです。

愛する人々は勿論の事、どんな人とでも天の御国で出会いたいものです。それが本当の和解なんだと思います。それがイエスキリストについて行く、キリスト者としての生き方であり、喜びなのです。

私たちは「すぐに」ついていっても、ある時にはイエス様から離れてしまう事があります。弟子達もイエス様を裏切ってしまいます。そもそも最初の人、アダムとイブからそういった有様です。創世記3:9~10 神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」彼は言った。「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。」

それまで神様と人間は良い関係であったのに、禁断の実を食べてしまった、罪を犯してしまった事により、関係が変わってしまったのです。「はい、ここにおります。」と「すぐに」答える事ができなくなってしまったのです。それが、今の私達の状況とも言えるのではないでしょうか。

しかし!キングオブキングスロックンローラー、イエス・キリストはいつでも僕と、皆さんと共におられる、インマヌエルなお方なのです。そして、友であり、王であり、祭司であり、魂の親分です!

今年1年間、良い時も悪い時もずーっと一緒でした。私たちが「本当に一緒なのかな」と疑ってしまう時もそうです。そして来年も、いや永遠にともにおられるのです。

私たちは、あえて言うなら、キリスト教の教えを守り、キリスト教の教えを人々に伝える「キリスト教の信者」ではなく。「宗教家」「宗教団体」ではなく。神の家族、「キリスト者」として喜び、生きるものでありたいと思います、、、いや生きるものです!GO!! 恐れず行く道を行きましょう。