2024/12/22(日) 『 キリストが語られたクリスマス 』ヘブル人への手紙10章5~7節:村松 登志雄 牧師

私達は、クリスマスが近づくと、どんなことを思い浮かべるでしょうか?今まで何回も聞いてきた、イエス様がお生まれになるまでの一連の出来事を聖書から聞きましょう。最初に、祭司ザカリヤへのみ使いガブリエルによるヨハネの誕生の預言がありました。次に、処女マリヤが聖霊によって身ごもるという、み使いによる主イエス・キリストの誕生の預言がありました。その預言を聞いたマリアが「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに」と質問したのに対し、み使いは、聖霊によって身ごもることを伝え、「神にとって不可能なことは何もありません。」と宣言し、マリアは「私は主のはしためです。あなたのおことばどおり、この身になりますように」と答えます。そして、マリヤがザカリヤの妻であり親類のエリサベツに会いにいき、エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、エリサベツの胎内の子ヨハネが踊り、喜びを表しました。その後、ヨセフとマリヤはガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に、ローマ皇帝の命令による住民登録のために旅をしました。ところが、マリヤはベツレヘムで、産気づきましたが、宿にも泊まれず、なんとか家畜小屋に泊まることができ、そこで男の子すなわち主イエス・キリストを生み、その赤ちゃんをベビーベッドではなく、飼葉桶に布にくるんで寝かせました。そして、羊飼い達が、み使いからイエス・キリストの誕生の知らせを聞き、捜し当てて会いに行ったことなど、福井記者ルカの語るクリスマス物語に私達は耳を傾けてきました。

そしてまた、マリヤの夫ヨセフが、婚約者のマリヤが身ごもったことを聞き、当然彼は悩みました。しかし、主の使いがヨセフの夢の中に現れ、マリヤの胎に宿った子は聖霊によるのであり、救い主がお生まれになることを知らされたので、主の使いの命じられたとうりにマリヤを妻として迎え入れました。 そして、イエス・キリストがお生まれになって、1,2年が過ぎた頃、東方の博士達が星に導かれて、キリストを礼拝するためにやって来ました。ところが、それを聞いたヘロデ王は、自分の王位が危うくなると恐れ、幼子のイエス・キリストを殺そうとしました。そのため、主の使いがそのことを夢で知らせ、ヨセフとマリヤと幼子はエジプトに逃げました。 しかしそのため、ベツレヘムの二歳以下の男の子が残らず殺されたこと等、福音記者マタイの語るきびしいクリスマスの物語に私達は胸を痛めながら耳を傾けて来ました。

福音書に登場する人物の一人一人に、クリスマスの出来事がどんなであったのか、詳しい様子を聞いてみたい気持ちにかられます。クリスマス劇では、聖書の記述から許される範囲で想像をふくらませて、登場人物を演じるのです。

ところで、クリスマス劇の主人公は誰でしょう。もちろん、主イエス・キリストです。では、イエス様のセリフはどんな言葉がふさわしいでしょう。と言っても、この時、イエス様は赤ちゃんです。赤ちゃんがしゃべるわけがありません。それに赤ちゃんにはまだ考える力もなければ、自分がどうしてマリヤの胸に抱かれているのかもわかるわけがないのです。確かにそうです。人間的にはそうです。そして、人間の子どもは、自分の意志で生まれたのでもなければ、ましてや、目的意識をもって生まれるなどと言うことはありません。

ところが、赤ちゃんのイエス様は、はっきりと目的意識をもってお生まれになっていることが、聖書に記されています。つまり、赤ちゃんのイエス様のセリフがあるのです。それが、ヘブル人への手紙の10章5節から7節のみことばです。もちろん、本当に赤ちゃんのイエス様がしゃべったのだと言うことを証明しようとしているのではありません。ヘブル書10章5節から7節のみことば、すなわち、イエス様のこのみことばは、イエス様がお生まれになったことの目的を、イエス様ご自身が、私達に語っておられるのです。イエス様はお生まれになった時、いや、お生まれになる前から、目的意識を持っておられたのです。

その目的とは、神様のみこころを行うためです。神様のみこころとは何でしょうか。それは、イエス様が、私達の罪の贖い(救い)を成就されるために、私達の罪の身代りとなって、十字架上で死んで下さったということです。イエス様は、実に、死ぬという目的のために、人間のかたちをとられてお生まれになったのです。人間も、確かに生まれたら死ぬ運命にあるのですが、それは結果であって、目的ではありません。

さて、このヘブル人への手紙10章 1節から 4節を見ますと、(聖書箇所を読む。)「律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることはできません。それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないのです。(ヘブル10:1~4)」旧約の時代、すなわち主イエス・キリストが来臨される前のイスラエルで献げられていたいけにえと、主イエス・キリストの完全ないけにえとが、影と実物との対比として説明されています。旧約時代のイスラエルでは、自分の罪の身代りに動物を罪のいけにえとすることが律法で定められていたのです。その罪のためのいけにえは、いわば、その場しのぎのもので、完全に罪を除くことができないのです。そして、年ごとに絶えずささげられていたのです。

しかし、イエス様は、ただ一度限りの、完全ないけにえとして、この世に来られたのです。主イエス・キリストはこのようにはっきりとした目的をもってこの世に、神であられるのに人間としてお生まれになられたのです。そして、その目的は、父なる神様のみこころを行うこと、すなわち、私達の罪の贖い(救)いのためなのです。

実は、ヘブル書10章 5節から 7節は、詩篇40篇 6節から 8節のダビデの賛歌からの引用なのです。(聖書箇所を読む。)「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びになりませんでした。あなたは私の※耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を、あなたは、お求めになりませんでした。そのとき、私は申し上げました。『今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ。私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは、私の心のうちにあります。』(詩40:5~8)」 ※参照;イザヤ書50章 4~ 6節

ということは、神様が、ダビデの賛歌を通して、クリスマスを語っておられたことが分かります。何と、神様が、主イエス・キリストによる罪の完全なあがないをご計画しておられたことが分かります。そして、このヘブル書のいけにえの対比から、私達が支払わなければならない罪の報酬、すなわち死(ローマ6:23)は、主イエス・キリストの死でなければ、完済することができないという、罪の大きさと、驚くべき神様の愛が知らされるのです。私達は、神様から離れ、自己中心に生きる者です。私達が正直に自己を見つめるなら、自分がどれほど罪深い者であるか、なんと自己中心であるかがわかります。

偉大な使徒パウロは、「私には、自分のしていることが分かりません。・・・・・・私は自分でしたいと願う善を行なわないで、したくない悪を行なっています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。・・・  私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と、叫んでいます。(ローマ7:15~24)しかし、そのみじめな死ぬべき人間のために、主イエス・キリストは、十字架にかけられて、死んで下さったのです。決して私達には支払うことのできない負債(罪の支払う報酬)を、代わりに、イエス・キリストが支払って下さったのです。そして、ペテロも聖霊に満たされて証言しています。「イエス・キリスト以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。(使徒4:12)」と。

そして、詩篇40篇 8節(読む。)「わが神よ。私は、あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは、私の心のうちにあります。(詩40:8)」を見ますと、イエス様が、神様のみこころを行なわれることに、しぶしぶ同意されたのではないこと、喜んで、私達の罪の身代りになるために、お生まれになって下さったことがわかります。イザヤ書53章11節(読む。)「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。(イザヤ53:11)」には、イエス・キリストの激しい苦しみの道、十字架の道に、主イエス・キリストご自身が満足されると言われています。確かに、主イエスは父なる神に願いました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)」とまで言われた、十字架の苦難は、その肉体的な苦しみより、罪のないイエス様が、父なる神様から、私達の罪の身代りとして、罪人とみなされて裁きを受ける、すなわち殺されるという、どう考えても理不尽なことだからです。しかしそれでも、イエス様は、私達の罪の救いのために、喜んで、神様のみこころに従って下さったのです。

何という驚くべき恵みでしょうか。何と言って感謝したらよいのでしょうか。この素晴らしい愛なるお方が、私達のためにお生まれになって下さったのです。そして、イエス様は、『今、わたしはここに来ております。(ヘブル10:7)』と仰っています。このみ言葉は現在形です。それは『今、わたしはあなたのところに来ており、そして二度とあなたと離れることは決してありません』と言う意味です。インマヌエル(神が私たちとともにおられる)の神(マタイ1:23)、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われるイエス様が、お生まれになったのです。

私達には今、抱えている人には言えないような問題、解決できないような課題、心の痛み、後悔、背負いきれないような重荷があるでしょう。しかしこの朝、主イエスは、「今、わたしはここに来ているよ」と仰っています。ですから、私達は今、すべてをご存じの神(詩139)、私達と同じ人間となってくださり、私達の弱さをご存じ(ヘブル4:4:15)の主イエスを見上げ、感謝し、共にクリスマスをお迎えしましょう。それが、真に「クリスマスを祝うということ」 なのです。