2026/8/23(日) 『前に向かって』ルカの福音書9章51〜62節:村松 登志雄 牧師

さあ、今日もルカの続きの箇所を見て行きましょう。

51節「天に上げられる日が近づいて来たころ」とは、直接的には、主イエスの人間の罪の贖いの為の十字架の死の時を意味し、全体としては、十字架の死、復活、昇天を意味します。
 詳訳聖書には「さて、イエスは天に迎え上げられる日が迫った時、堅く<決然と>御顔をエルサレムに向けて進まれた。(51)」と訳されています。
主イエスの並々ならぬ決意が感じられます。

この時主イエスは、ガリラヤからユダヤに南下するにあたって、直線コースのサマリヤの地を通って行こうされ(サマリヤを通過するなら、ガリラヤからエルサレムまで三日で行く事が出来る)、弟子達に宿の準備等をさせる為に使いを出しました。
しかし、主イエスがサマリヤを通過するだけで、サマリヤ地方にとどまるつもりがないことを知ったサマリヤ人達はそれを快く思わなかった様です。おそらく、噂に聞いていた主イエスの癒しが行われることへの期待が裏切られたからではないでしょうか。

それで弟子達の中で、「雷の子(マルコ 3:17)」と呼ばれている短気なヤコブとヨハネ、、、と言う記述がありますが、改めて主イエスの弟子達一群は、その中に二人も「雷の子」すなわち怒りに早い者がいるという事は大変だっただろうなあと思われます。
私のような人間が2人もいると思うと嫌だなあと思います(笑)。さて、その件の二人は、「主よ。私たちが天から火を下して、彼等を焼き滅ぼしましょうか。(54)」と進言しました。
彼等がその様に言ったのは、彼等が主イエスに対して、エリヤ的メシヤを見ており、預言者エリヤの活動(Ⅱ列王 1:10~12)を期待していたからです。(ある写本の中には、この箇所に「エリヤがしたように」の言葉の挿入がある)
彼等の主イエスに期待していたイメージは、屠り場に引かれて行く羊のようなお方(イザヤ53: 7)ではなく、敵を滅ぼす雄々しいお方、審判者です。

しかし、主イエスは彼等を戒められました。何故なら、十字架の死に向かわれる主イエスは、雄々しい審判者としてではなく、平和の君として来ておられるからです。
また、主イエスはユダヤ人達が侮蔑し、忌み嫌っているサマリヤ人達をも愛しておられるからです。参照;「サマリヤの女性の救い(ヨハネ 4: 1~42)」
そしてこの時の彼等には、まだ、主イエスの弟子として身に着けていなければならない最も大切な品格「謙遜さ」がなく、奢りだけがあったからです。
この時の彼等には、自分達だけが正しいのであり、他の者は間違っているという認識しかなかったからです。これはいつも言っているように人間の持つ自己中心という罪性によるものです。
ですから、主イエスを歓迎しなかったサマリヤ人も、歓迎しなかったサマリヤ人を焼き滅ぼそうとする彼等も、どちらも同等です。
いいえ、主イエスの弟子であることの自覚を持つ彼等の方が、より責められるべき立場にあるのです。
そして私達キリスト者も、この事に注意しなければなりません。
何故なら、私達は間違え易い者であるからです。だからこそ、心の貧しい者であること、弱い者であることを絶えず忘れない事が重要です。

さて主イエスの一行が別の村に行くと、三人の弟子志願の人達が主イエスに接近します。

第一の人は積極的な人らしく、弟子としての理想的な覚悟を言います。「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。(57)」と。
しかし主イエスは突き放すように、彼に言われます。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。(58)」と。
一言で言えば、「人間には耐えられない、厳しい旅ですよ。それでもついて来ますか。」という意味です。
今、主イエスは「十字架への道」を進んでいるのです。
その姿とは「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。(イザヤ53: 3~ 4)」ものです。

第一の人は一見立派に見えますが、人の上辺ではなくその心を見る(Ⅰサムエル16: 7)神の御子には、彼が憧れで主イエスについて行こうとしている、彼自身の真の姿が見えるのです。
いや、第一の人だけに限らないのです。十二弟子達全てが同じ様に思っていましたが、実際には誰も最後までついて行く事ができなかったのです。
特にペテロは、「たとえ皆があなたにつまづいても、私は決してつまづきません。(マタイ26:33)」「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカ22:33)」と豪語しましたが、その舌の根も渇かないうちに、大祭司のカヤパの家の中庭で、主イエスの弟子である事を問い詰められると「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、『そんな人は知らない』と言った(マタイ26:74)」のです。

そこで分かるのは、弟子になるには、立派な決意ではなく、自分の弱さ、貧しさを認識出来る事こそ必要な資質です。
その人は、自分の力によってではなく御霊に依り頼むからです。
ですからその後、十二弟子達は、徹底的に自分達の弱さ愚かさ貧しさを知らされ、砕かれたが故に、聖霊を待ち望み、祈ったのです。(参照;使徒1:14、2:1~4)
そして、主イエスの命令を守り、祈りの中で聖霊に満たされ、真の弟子となったのです。

では第二の人はどうだったでしょう。彼の場合は、彼の方からではなく、主イエスの方から接近され「わたしに従って来なさい。(59)」と言ってくださったのです。何という栄誉でしょう。
しかしその人は言いました。「まず行って、父を葬ることをお許しください。(59)」と。
主イエスはその人に命じました。「死人たちに彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。(60)」と。
この主イエスの命令はあまりにも無慈悲に思えます。そして主イエス御自身が律法を「廃棄するためではなく、成就するために来たのです(マタイ 5:17)」と宣べておられ、その律法「十戒」は、「あなたの父と母を敬え(出20:12)」と命じているのですから、この事に反してしまいます。ですから、主イエス御自身が律法違反者となります。

しかし実はこの第二の人の願いの言葉は、今現在、父親の葬儀の必要があるという意味ではありません。
詳訳聖書では「父を葬る」を「父が亡くなるのを待つ」と、説明訳しています。 
ですから彼は、父が亡くなり、自分が身軽になったら、ついて行きます、と言っているのです。
また主イエスが言われた「死人たち」とは、所謂死人の意味ではなく、永遠のいのちをいただいていない人の意味です。パウロの言う「自分の背きと罪の中に死んでいた者(エペソ 2: 1)」である人達の事であり、「この世の人」の意味です。

ですから、主イエスは、この世の人の事はこの世の人に任せて、永遠のいのちであるわたしに召されたあなたにとって最も大事な事「神の国<永遠のいのち>を言い広めなさい」と命じておられるのです。
結果的には、その人の伝道によってその死人達、例えばその人の家族も受け入れるなら、永遠のいのちをいただいて生きる人になるからです。

では第三の人とはどうだったでしょう。
主イエスに向かって「主よ。あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。(61)」と願います。

しかし主イエスは、その人に甘えるな、とでも言い放つように「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。(62)」と言われました。
主イエスのこの言葉にも、私達が当然の感情として持つ「情」というものを主イエスは持たれないのか、と思ってしまいます。
そして、かつて預言者エリヤがエリシャを弟子として召したとき、エリシャが「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」と願った時、エリヤは「行って来なさい。」と、その願いを叶えてあげました。(Ⅰ列王19:19~21)

しかし第三の人の願いの言葉を良く注意して聞きますと、第二の人とは違い、第一の人に似ているのです。というのは彼は弟子になる事を志願しているからです。
つまり、彼には弟子になる覚悟がありながら、今さら、家族にいとまごいを、などと言っているのです。本当に覚悟があるのなら、主イエスの所に来る前に、それを済ませておくべきなのです。つまり真の覚悟などないのです。

ヤコブはこのような人を、「二心を抱く者(ヤコブ 1: 8、4: 8)」と呼び、次のようなみことばで表現しました。「私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水が甘い水を出すことはできません。(ヤコブ 3:12)」「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。(ヤコブ 4: 4)」と厳しく宣べています。

主イエスは「うしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくない」と言われましたが、「後ろを振り返った」人の代表として、ロトの妻の例があります。
滅びの町ソドムから、神の御使いによってせっかく救い出されたのに、神の御使いの命令「うしろを振り返ってはいけない。・・・・立ち止まってはならない。・・・・そうでないと滅ぼされてしまうから。(創19:17)」という警告を無視し、振り返って、塩の柱になってしまった(創19:26)事例があります。

ヘブル人への手紙の記者は、私たちキリスト者にこう勧告しています。
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12: 2)」と。

主イエスは、「天に上げられる日が近づいて来たころ、御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれ(51)」ました。
後ろを振り返らず、前に向かわれたのです。御自分の行くべき、御自分の目の前の道を真っ直ぐに見つめられ進まれたのです。

それは十字架の死という人には耐える事の出来ない苦難の道です。しかし、その道の向こうに見える復活の栄光を見つめておられました。

この世の終わりが近づいているかのような現代、この世界の混乱の中で、私達は、主イエスに、みことばに従って、「前に向かって」いるでしょうか。
三人の弟子志願者達と私達は違っているでしょうか。
それとも、同じ穴の狢でしょうか。

しかし、罪ある人間は誰も自分の努力や覚悟などで真の弟子となる事はできないのです。
安心させる為に言っているのではありません。しかし、それを真に知る事が、真の弟子となる鍵なのです。
何故なら、御霊に依らなければ、何も出来ないからです。私達の心は弱く、愚かで、貧しいのですから。

主イエスが「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。あなたがたも証しします。(ヨハネ15:26~27)」と約束され、命じられたみことばは、私たち「キリスト者の証し」です。
そして、そのみことばに従って、行わせしめるのは「御霊」です。
そうであるならば、私達も「キリストの証し者」となること、真の弟子となることが約束されているのです。
しかしここで、一つの条件があります。それは「願い」です。心から、あなたがそう願っているか、です。(参照;教会福音讃美歌387「弟子となしたまえ」)

あなたは、この世を生きるために、何を願っていますか。
「私は弱く貧しい者です。しかし私は主の弟子になりたいです」  と願う者でしょうか。

さあこの朝、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、共に「前に向かって」歩みましょう。