さあ、今日もルカの福音書の続きから見て行きましょう。
37節、主イエスが三人の弟子達(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)と共に、山から降りて来ると、大勢の群衆が主イエスを出迎えました。
すると、群衆の中から、一人の人が叫んで言いました。
「先生、お願いします。息子を見てやって下さい。私の一人息子です。ご覧下さい。霊がこの子に取りつくと、突然叫びます。そして、引き付けを起こさせて泡を吹かせ、打ちのめして、なかなか離れようとしません。あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。(38~40)」と言いました。
ここでの、「お弟子たち」というのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を除いた、残りの九人の弟子達です。
しかし何故、彼等には悪霊を追い出す事が出来なかったのでしょうか。
と申しますのは、彼等にはすでにその(悪霊を追い出す)権能が与えられていたからです。
ルカ9:1~2で「イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒す力と権威を、彼らにお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、(こう言って)彼らを遣わされた。」とあるからです。
そしてその後「使徒たちは帰って来て、自分たちのしたことをすべて報告した。(ルカ 9:10)」のでした。
マルコも、「こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。(マルコ 6:12~13)」と記しています。
ですから、最初に派遣された時の弟子達は、主イエスから与えられた権能を行使出来たのです。
しかし、この時、彼等はその権能を行使出来なかったというのです。何故なのでしょうか。
マタイは、弟子達が主イエスに「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。(マタイ17:19)」と尋ねると、主イエスが「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。(マタイ17:20)」と答えられた事が記されています。
またマルコは、主イエスが弟子達の質問に「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。(マルコ 9:29)」と答えられた事が記されています。
ですから、この時の主イエスの答え「信仰が薄い」と「祈りによらなければ」というおことばは、神に絶対的に信頼するか、また神に全面的に依り頼むかどうか、という事を言っておられるのです。
また、マタイ17:19の「なぜ私たちは、悪霊を追い出せなかったのですか」と問うた「私たちは」と言う質問にも、彼等の認識の貧しさがあります。彼等の、「何故自分達は癒せなかったのか」、つまり、「自分達の力の何が足りなかったのか」、というこの認識そのものが問題なのです。
つまり、彼等は自分自身には、もともと悪霊を追い出し、病を癒す力など無いのだ、という事実を忘れているのです。
と言うより、彼等は間違った認識を持ってしまったのではないでしょうか。
かつて彼等が、最初に派遣された時、悪霊を追い出し、病を癒す事が出来たのは、まだ主イエスの御名によって行っていたからではないか、と考えられます。
しかしいつの間にか、彼等は自分に、その力があるかのように錯覚してしまったのではないでしょうか。
神の権能が与えられたからといって、それが自動的に発動されるのではなく、絶えず、神から頂く恵みへの感謝<与えられるに相応しくない者である事の自覚による>によって行う事ができるという事実を徹底的に知っている必要があったのです。
すなわち、神との正しい関係を保ち、そして祈りによって、その全てが為されるのです。 与えられた特権に奢らず、主の助けを祈り、恵みに値しない自己を知り続ける。それが真の信仰者のあり方です。
ここで、モーセの例を思い出してみましょう。
かつて、エジプト<の奴隷>から脱出し、荒野を旅するイスラエルの民を率いる指導者モーセは、度重なるイスラエルの民の不平不満に業を煮やして、「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」と言って、彼の杖で岩を二度打ったのです。(民数記20:10~11)
しかし、主はモーセとアロンに「あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」と命じられたのです。(民数記20:8)
主はモーセとアロンをさばかれました。「あなたがたははわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現わさなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(民20:12)」と。
モーセは、業を煮やしていたとは言え、彼自身の怒りを込めて、自分の杖で岩を二度も打ったのです。それは不必要な行為であり、主の命令に逆らったものでした。<主の命令は、口で命じる>だった訳ですから。しかも彼は水を出すのが「主が」ではなく、「われわれが」と言ってしまっているのです。
しかし思い出してください。主イエスでさえ、祈られたのです。パンと魚の奇蹟において。
ルカが記した「天を見上げ(ルカ 9:16)」とは、マルコが「天を見上げて神をほめたたえ、(マルコ 6:41)」と記している様に、父なる神に祝福を求めて、祈られたのです。
マルコ9:29にある「祈りによる」とは、神との深い交わりの中で、神の力を受ける事なのです。
しかし、弟子達は、神から与えられた権能を、主イエスから与えられたものであるのに、それを自分のものとして使ったのです。
故に、主イエスは嘆かれたのです。
「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。(41)」と言われて。
このように、時に率直に嘆きの感情を表される主イエスは私達の弱さに同情出来るお方(ヘブル 4:15)として、血の通った正真正銘の人間であり、喜び、怒り、悲しみ、落胆の感情をお持ちの方なのです。
そして、主イエスのこの落胆の言葉に至る経過を振り返ってみましょう。
第一に、主イエスは、5つのパンと二匹の魚の奇蹟を弟子達と群衆の前で行われました(ルカ 9:10~17)。
第二に、主イエスは「わたしをだれと言いますか(ルカ 9:18~20)」と弟子達に質問し、父なる神の導きによるペテロの信仰告白によって、御自身が「神のキリスト(ルカ 9:20)<生ける神の子キリスト(マタイ16:16)>」であられることを明らかにされました。
そして、神の御子のご目的である、人間の罪の贖いの為の十字架の死を預言されました。
しかし、この時弟子達は、それを理解しませんでした(マタイ16:22)。
第三に、主イエスは、山上で、主イエス本来の栄光のお姿を三人の弟子達に現されました。 そして、ペテロの信仰告白を証言する、父なる神の「これは、わたしの選んだ子、彼<主イエス>の言うことを聞け。」との御声がありました。
しかし、ペテロを始めとする三人の弟子達は、驚き、恐れましたが、結局、何も理解しませんでした(ルカ 9:28~36)。
しかし主イエスは彼等に嘆かれましたが、悪霊に憑かれた子どもを癒されました。そして、これを見ていた人々は、神の偉大さに驚嘆しました(42)。
けれども、この人々は、後に「十字架につけろ(ルカ23:23)」と叫ぶ者、「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。(ルカ23:35)<マタイ27:39~40>」と言う者にもなったのです。
そして主イエスは最後に、弟子たちにこう言われました。
44節、45節「『あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。』と。しかし、弟子たちには、このことばが理解できなかった。彼らには分からないように、彼らから隠されていたのであった」とあります。
この敢えて「隠されていた」と記述されたのは、それほどまでにイエスの十字架(メシヤの受難)というのは弟子たち(すなわち私達人間))には理解でき得ない神の隠された奥義なのです。
しかし、主イエスの十字架は、彼等<弟子達と群衆>の不信仰の全てを負われました。
主イエスは弟子達を、群衆を嘆かれはしましたが、しかし、彼等を決して見捨てませんでした。
そして主イエスの十字架は、忍耐の極限に至ります。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。(Ⅰペテロ 2:23~24)」のです。
そして十字架の上で、御自分を嘲る人々に対して「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかがわかっていないのです。(ルカ23:34)」と、父なる神に、とりなして下さったのです。
主イエスの十字架は「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍ぶ(Ⅰコリント13: 7)」“愛”だったのです。
「耐え」とは、忍耐する、支える、背負う、担うの意味があります。
主イエスの十字架は、愛の極致であり、故に、主イエスの十字架は、忍耐の極限に至るのです。でも、この忍耐は「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え、」と言う、悲壮な忍耐ではありません。
主イエスの忍耐とは、愛から発する忍耐であり、勝利に至る(イザヤ53:11)忍耐です。
私達キリスト者は、この忍耐の<私達を支え、背負う>主イエスを信じている者です。
主イエスの御声が聞こえます
「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、あなた方と一緒にいなければならないのか。いつまであなた方に我慢していなければならないのか。」と。
私達は、キリストを信じる者として、ふさわしく、主イエス・キリストを見ているのでしょうか。
私達は今日、神の命令「彼<主イエス>の言う事を聞く(ルカ 9:35)」者として、そしてただ主イエスに依り頼む者として、救いの感謝を携えて、礼拝に臨む者でありましょう。
