2026/8/16(日) 『一番偉い人』ルカの福音書9章46〜48節:村松 登志雄 牧師

さて、ルカの福音書の続きを見て行きましょう。
この時点で主イエスの弟子達の最大の関心事は、主イエスご自身ではなく、自分達でした。何故なら、「弟子達は、自分達の中で、誰が一番偉いかと議論している(46)」事から分かります。
このことはこの後も弟子達の間の最大の関心事として、それは最後の晩餐の席まで続いた事でした。最後の晩餐の席で、主イエスが弟子達の中に裏切る者がいると宣言された時でさえルカ22:23で「自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた」ということですが、その様な深刻な状況にもかかわらず、相変わらず「自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか(ルカ22:24)」という議論をしていた訳です。

この、主イエスによる十字架の贖いによる罪からの救い、すなわち新しい契約<聖餐>という厳粛な宣言と、ご自分を裏切る者がいるという悲しみの宣言の直後に、議論されたことが、何と「誰が一番偉いか」だったという事に改めて衝撃を受けます。

一体この弟子達は何を考えているのだろうかと思ってしまいます。
しかしまた、なまじ教養があると、腹の中にある思いは隠してしまいがちですが、その点、彼らは非常にストレートです。つまり子供のようです。
しかし、主イエスは最後の晩餐の後、愚かな議論をしている弟子達に、「給仕をする者(仕える人)になりなさい。(ルカ22:26)」と命じておられます。そして続いて「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。わたしの父がわたしに主権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに主権を委ねます。そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。(ルカ22:28~30)」と、祝福の約束を与えておられるのです。

確かに、弟子達の間での議論は、愚かな議論でしたが一方、真剣でもあったのではないかとも思います。
彼らは人間的な思いで神の国の到来を待ち望んでいましたが、そうであっても、やがて来る神の国で通用する立派な人間になりたいという思いがあったのではないでしょうか。
そして私達も彼らとあまり違わないのではないでしょうか。誰よりも信仰深くありたい、立派な信仰を持ちたい、素晴らしい信仰者と呼ばれたい、、、と願う者であったりします。
次々と出版される信仰の偉人伝や証し人の本を読んで、かつて私もこの様な信仰の人になりたいと思う気持ちがありました。それは、彼らが「誰が一番偉いか」と議論した気持ちの根底と、似たものではなかったかと思うのです。

さて、そこで47節、主イエスは、一人の子どもの手を取り、御自分の側に立たせて、弟子達に言われました。
「誰でも、この様な子どもを、わたしの名の故に受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなた方全ての中で、一番小さい者が一番偉いのです。(48)」と。
主イエスは「この様な子ども(48)」と言われましたが、では「この様な子ども」とは一体、どの様な意味なのでしょうか。
主イエスの御側に立たされた子どもは、 3, 4歳くらいの幼児ではないかと思います。もう少し大きな子どもとしても 5, 6歳だと思います。
そして、その子どもを、大人の弟子達が取り囲んでいるのです。

ですから、 子どもの方から見るなら、恐ろしい光景です。元漁師であった屈強な者達もいる大人達が自分を囲んで見下ろしているのです。
もし、やさしい主イエスが側にいて手を取っていて下さらなければ、その子は泣き出していたかもしれません。
おそらく、その子は何で自分がこんな状況に置かれているのかが分からず、側で手を取っていて下さる主イエス様にしがみついていたのではないでしょうか。
その子どもは、無力で弱く、保護されなければならない存在でした。
その様な、弱い存在の子どもを、主イエスは「わたしの名の故に受け入れよ」と言われたのです。
そして聖書は、子どもを単にただかわいい存在として見るのではなく、弱く、まだ十分な成長を遂げてない存在としても表現しています。
パウロはこう宣べています。
「私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったときに、幼子のことはやめました。(Ⅰコリント13:11)」と。
「こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく(エペソ4:14)」と表現し、
また「乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。(ヘブル5:13)」と言っています。

このように主イエスは、弟子達に囲まれて、見下ろされているこの子どもの様に、大人から見るなら、小さく、低く、主イエスにすがりついておびえている存在、大人の保護によってしか生きられない存在、弱く依存しなければならない存在を、「受け入れよ」と言っておられるのです。
また、福音記者マタイは、主イエスが「あなた方も悔い改めて子ども達の様にならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どもの様に、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18: 3~ 4)」と言われた、と記しています。

ですから、この幼子を取り囲んでいる、主イエスの弟子達こそ、弱く愚かで低い者であることを、知るべきですよ、と主イエスは教えておられるのです。
パウロは、コリントの教会のキリスト者達にこう宣べています。
「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。(Ⅰコリント1:26~28)」と。

ですから主イエスは、弟子達が互いに「誰が一番偉いのか」と議論している、その議論そのものをやめなさい、と言っておられるのです。
彼らが真剣であったことは認めるにしても、彼らのその議論自体に彼らの自己中心性が見えます。 他との比較における成功思想があります。立派でなければならない、徳と実績がなければならないという、間違った行いの信仰があります。いいえ、それは信仰ではなく、単なる自己実現の追求にすぎません。

ですから、主イエスはその自己中心性、罪性に気づかせる為に、幼子をその見本とされたのです。
そして主イエスは弟子達を諭しておられるのです。真実の自分の姿、無力で弱く依存しなければ生きられない幼子の様に、ただ救い主イエスにしがみついておすがりするしかない存在である事に気づけ、それに気づいた者こそ、一番偉い者なのだ、と。
立派であるとか、お粗末であるとか、信仰が強いか、弱いかを採点するのは、人間の側ですることです。しかし、主イエスの視点は、自分の存在の低さ、小ささを知る者として、ただ主イエスにおすがりし、主イエスを信頼するかどうかにあります。
ですから、自分の存在の低さ、小ささを認める「謙遜の奥義」を極めた者が、一番偉い人なのだ、と主イエスは仰っているのです。

賛美歌503番の中に、「垂穂(たりほ)」という言葉が出て来ます。この垂穂という言葉は、よく謙遜の実として解釈されています。ちょっと歌詞を見てみましょうか。

1)春の朝(あした)、夏の真昼、秋の夕べ、冬の夜も、
いそしみ蒔く道の種の 垂穂となる時来たらん
(おりかえし) 刈りいるる日は近し、喜び待てその垂穂、刈りいるる日は近し、喜び待てその垂穂

私はこれまでこの歌詞にある「垂穂」という言葉は、多くの実がなって垂れるその姿、多くの教養の実を持つ者が、それ故に奢らず謙遜になるのであるというイメージを持っていました。
しかし今、私は、その多くの実とは、罪の実、弱さの実ではないかと思うようになりました。
その罪の重さに神の御前でうなだれてはいますが、それに比して、恵みの実は豊かに結ばされているのだと。
主イエスの十字架の愛による恵みの体験を証しし、自ら罪人の頭(Ⅰテモテ1:15)であると認識している、使徒パウロは「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)」と告白しています。ですから、豊かな実とは、悔い改めの実ではないかと思うのです。

そして、主イエスの「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。(48)」という御言葉は、地上の神の国<天の御国>であり、キリストのからだである教会に向けられた御言葉です。
何故なら、教会は、失敗者、弱者が、そのままで受け入れられるべき場所であるからです。
成功思想に毒された教会、格好の良い大人だけしか、すなわち成功者しか受け入れない教会、愚かで弱い子ども、すなわち弱者を疎外する教会は、真のキリストの教会ではありません。
それは人間の価値観、成功思想が支配する人間の罪性が支配する団体にすぎません。
キリストの教会とは、自らが、子どもの様に、弱く十分でない者であると認識する者達の群れであり、互いの弱さを分かち合い、共に主イエスにすがり信頼する者達の群れでありたいです。   
11月になると、逗子福音教会では主日礼拝で「子ども祝福式」が執り行われます。主の御前に出て、主の御側に立つ子ども達の祝福を願わない親は、何処にもいません。
しかし、その養育者の祝福の願いの本質は何処にあるのでしょうか。
もしも「できれば、一番<成功者、勝利者>になってくれ」という願望があるなら、その親は親として、聖書の価値観ではなく、この世の価値観に毒されているのではないかと振り返る必要があるのではないでしょうか。
現代の世の価値観は、いつも他との比較であり、子ども達はその価値観によって育てられ、その結果心を病み、悲鳴を上げています。否、大人も悲鳴を上げています。
成功思想そのものが罪であるとは言いません。しかし、他との比較における成功思想は、人間の持つ罪性に拍車を掛けてしまいます。

弱い者が見下げられ、切り捨てられているのが、この世界の有り様(よう)です。
しかし、この世に、それを、「ノー」と言える人に育って欲しい、と願う親でありたい、否、私達養育者自身が、その様な生き方を示す者として召されているのではないのでしょうか。

謙遜の実を、豊かな実を結んでいる姿を見せる者として生かされているのではないでしょうか。
この私の生き方に、真の人生の生き方がある!と。
人生の勝利者とは、ただ恵みによって生かされている者としての自覚を持つ者であり、主イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いがなかったのなら、真に生きる事が出来ない者と知る者です。
この視点に立つ者、すなわち主イエスに手を取られ、御側に立たされている者が、どうして謙遜になれない事などあり得ましょうか。
一番偉い人とは、どうしようもない自分の罪性を誰よりも最も深く<一番>知る者、すなわち、全ての人の中で一番小さい者と自覚出来る者です。

だからこそ、どんな隣人をも、主イエスにあって、尊敬し、愛する事が出来る人です。悔い改めの実を結ぶ垂穂の様な人です。主の恵みの中で生きる人です。

そして、その人には「キリストの心(Ⅰコリント 2:16)」が与えられているのです。
その人とは誰でしょう?
そうです、私達キリスト者です!それを願いましょう。