2026/7/5(日) 『あなたにとって、わたしは誰か』ルカの福音書9章18〜22節:村松 登志雄 牧師

さて、本日は前回の五つのパンと二匹の魚の奇蹟の後に続く箇所です。では見て行きましょう。
主イエスは弟子達に質問されました。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。(18)」と。
弟子達は答えました。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。(19)」と。

弟子達の答えから、人々の多くが主イエスを誰だと見ていたのかが分かります。
一番目の、バプテスマのヨハネであるという見方ですが、このヨハネはヘロデ・アンテパスに殺されています。
しかし、殺した当の本人ヘロデ王が主イエスのうわさを聞いて、『あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。』(マタイ14:1~2)」と恐れていますので、人々の中にはそのようなうわさが広まっていたのでしょう。
確かに、バプテスマのヨハネは偉大な預言者でした。しかし、彼自身が主イエスに対して「私には、その方<主イエス>の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。(マタイ3:11)」と言っていましたね。
そして、彼は主イエスの道を備えるための先導者、神から遣わされた先駆者でありました。

 二番目の、エリヤであるという見方ですが、エリヤという人物は紀元前9世紀の北イスラエル王国の大預言者であって、当時偶像<バアル>礼拝をしていたアハブ王とバアルの預言者と戦い、天地創造の神、真の神への信仰によって彼等を打ち倒したので、それを見ていたイスラエルの民は「主こそ神です。主こそ神です。」と言ってひれ伏しました(Ⅰ列王18:39)という歴史があります。
そしてその後、、火の戦車と火の馬が現れ、エリヤは竜巻に乗って天に上って行った(Ⅱ列王 2:11)ので、やがて終末の日に再来すると信じられていたのです。
しかし、マラキ書には「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として討ち滅ぼすことのないようにするためである。(マラキ4:5~6)」と記されている様に、彼もまた、救い主が来られる前の先駆者であった訳です。
そして、主イエスはヨハネについて「あなたがたが受け入れる思いがあるなら、この人<ヨハネ>こそ、来たるべきエリヤなのです。(マタイ11:14)」と言われました。

また三番目の、預言者のひとりであるという見方についてですが、これはつまり旧約の預言者の誰かが復活したという見方です。
人々のこれらの見方は、終末的危機の時代に預言者が復活すると信じ、過去の預言者と結びつける考え方ですが、主イエスが単なる終末のメシヤ(救い主)の先駆者ではなく、彼らの考えを遙かに越えた終末のメシヤ<救い主>そのものであるお方とは考えていなかったことが分かります。

そしてそこで、主イエスは今度は同じ質問を弟子達に投げかけました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。(20)」と。
主イエスと寝食を共にし、いつも主のメッセージを聞き、主のなさった癒しやパンの奇蹟を目撃し、主と深い交わりを持ち続けてきている弟子達に向かって、主イエスは、「あなたがたは、このわたしをよく知っているはずだ。あなたがたは、わたしをだれと言うのか」と質問されたのです。
この質問は、単に「人々の噂ではわたしの事をいろいろ言っているが、あなたがたはわたしのことをどう思う」という軽い質問ではありません。

主イエスの弟子達に対する真剣な問いです。今この時、主イエスは、弟子達との深い交わりの中で、最も大切なことを弟子達に問いかけておられるのです。
「世の人々はいろいろ言っているが、あなたにとって、わたしは誰なのか」と問うておられるのです。

主イエスはこの後、初めて、ご自身の十字架と復活の預言をされるのです。
「人の子は、多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらねばならない、(22)」と

すると、一番弟子のペテロが弟子達を代表して答えました。「神のキリストです。(20)」と。
福音記者マタイは、ペテロが 「あなたは、生ける神の子キリストです。(マタイ16:16)」と答えた、と記しています。                                   
「キリスト」とはヘブル<アラム>語でメシヤ、すなわち「救い主」のことですが、このギリシャ語読みが「キリスト」です。

「キリスト」とは、「油注がれた者」を意味します。
イスラエルは、神が特定の聖職に人を召されたときに、神が任務遂行のために御霊の力を授けたもうことの象徴として、油注ぎによる任職式が行われていました。
それが、イスラエルに王も預言者も途絶えてしまってから、旧約聖書の預言に従って、王、祭司、預言者の職を一身に兼ね備えた救い主を待望するようになって、来るべき救い主を表わす名となったのです。

ですから、この時のペテロの告白は、人々の考えとは全く異なるものでした。
しかし、マタイは、主イエスが彼の答えに対して「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。(マタイ16:17)」と仰ったことを記しています。
それは「その答え<信仰告白>は、あなた自身によるのではなく、神があなたに与えて下さったのですよ。」という意味です。

この事を更に強める証拠としてマタイは、ペテロのこの素晴らしい信仰告白のその後に、主イエスが初めて御自分の十字架と復活の預言をされた時、ペテロが、主イエスをわきにお連れして、いさめ始め、「そんなことがあなたに起こるはずがありません。(マタイ16:22)」と言い、主イエスに「下がれ。サタン。(マタイ16:23)」と一喝されたことを記し、ペテロの信仰告白が自分の悟りによったのではない事を徹底的に知らしめています。
パウロは「生まれながらの人間は、・・・・それを理解することはできないのです。(Ⅰコリント 2:14)」「もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。(Ⅰコリント 2:8)」と宣べていることからも分かります。( 参照;Ⅰコリント 2:10、12: 3)

しかし、ペテロのこの時の答え<信仰告白>の、「神」とは、紛れもなく天地創造の神、全知全能の神です。
ですがペテロは、主イエスが、預言者、すなわち人間ではなく、「神」であられると、信仰告白しているのです。

ここで、ペテロが告白したその神、またキリストについて、聖書から少し見て行きましょう。パウロは多くの偶像を礼拝している町アテネの人々に、真の神、命の根源であるお方について宣べています。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちの息と万物を与えておられるのですから。(使徒17:24~25)」と。 

そして、パウロは、主イエス・キリストについて、こう宣べています。
「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。(コロサイ 1:15~17)」と。

また、ヘブル人への手紙の著者は、主イエス・キリストについてこう宣べています。「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。(ヘブル7:24~25)」と
こういう性質を持たれた神の子キリストであると、ペテロは告白したのです。

さてここで、主イエスの弟子達への、その問いは、現在の私たちにも問われています。「あなたにとって、わたしは誰か」と。
聖書は、私達に、今も生きて働いておられる神(ヨハネ 5:17)、生ける神、人格神(ローマ8:26)を示しています。
使徒ヨハネは,主イエスについてこう宣べています。
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。・・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:1~4、14)」と。 

「ことば」とは「主イエスご自身」のことです。「生ける神の御子キリスト」ご自身のことです。ですから、「あなたにとって、御言葉は何<誰>か」とも問われているのです。

御言葉を「教訓」あるいは「教え」として、世の道徳のレベルに引き下げてはなりません。
御言葉は「生きておられる主イエスご自身」なのです。

私達はよく「聖書を学ぶ」と言います。しかし、私達の信仰は「教え」を学ぶことではありません。生きておられる主イエスとの交わりが命なのです。

先週の小野寺伝道師のメッセ-ジにもありましたね、インマヌエルの神(マタイ1:23)、すなわち、私達と共にいて下さり、共に泣いて下さり、共に喜んで下さるこのお方を信じているのです。
繰り返し言いますが、私達は「教え」を信じているのではありません。「教え」の信仰は、必ず律法的になり、他の人をさばき、自分をも、さばきます。
しかし、「主イエスご自身」を信じる信仰は、いつも主イエスを見ています。
いつも主イエスに聞きます。「イエス様ならどうなさいますか。」「イエス様ならどう言われますか。」と。

そして今日も、主イエスは私達に問うておられます。「あなたにとって、わたしは誰か。」と。そのあなたとは、神が「あなたは高価で尊い」と言われている、その「あなた」です。

そしてこの素晴らしい信仰告白をしたはずのペテロは、主イエス・キリストが十字架の死に向かわれた時、主イエスを裏切りました。しかし、復活の主に会った彼は主から「私を愛するか」と三度も問われ、主の愛に触れ、今度こそ本物の信仰告白、主への愛を告白しました。

そのイエスが今日、私達にも問うておられるのです。
他の人々が何と言おうと、「あなたにとって、わたしは誰ですか」、「あなたはわたしを愛しますか」と。
しかも、裏切ったペテロに対してと同じ様に、「わたしがこんなに愛したのだから<あなたの罪の贖いの為、十字架で死んだほど、愛してやったのだから>と恩着せがましくでもなく、まるで私達に懇願されておられるかのように、「あなたにとって、わたしは誰ですか」「あなたはわたしを愛してくれますか」と問うて下さっているのです。

私達はいつも「私にとって、あなたは、誰よりも大事な方です。最も愛する方です。」と告白する者にならせていただきましょう。
そして、主イエスとの語らいの時を、他のどんな時よりも、最も大切な時とする者にならせていただきましょう。
何故なら、私達ではなく、主イエス御自身の方から、私達を求めていて<愛していて>下さるからです。

ですから今日、私達はこの主の愛に応えて、主を愛する者として歩み始めましょう!