本日も先週からの続きです。
まず、28節「イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。」とあります。
主イエスはいつも、周りの喧噪を離れ、静かな所で祈ることを必要としておられましたが、マタイの福音書もマルコの福音書も「ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。(マタイ17: 1)<マルコ 9: 2>」と記していますので、この時の御目的は、御自分の為だけではなく、三人の弟子達に、御自分をお示しになられるためであった事が分かります。
この、御自分をお示しになられた事とは「これらのことを教えてから八日ほどして(28)」先週の箇所ですね。
主イエスは弟子達に「わたしをだれだと言いますか。(ルカ 9:20)」と質問され、ペテロが「神のキリストです。」と答えましたが、その答えが真実であることの証拠として、主イエス御自身の本来のお姿「生ける神の子キリスト(マタイ16:16)」の栄光のお姿をお見せになられた事を指しています。
何と、主イエスが「祈っておられると、御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた(29)」のです。
マタイは「弟子たちの目の前でその御姿が変わった。御顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。(マタイ17: 2)」と記し、マルコは「彼らの目の前でその御姿が変わった。その衣は、非常に白く光り、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。(マルコ 9: 2~ 3)」と記しています。
「太陽のように輝き(マタイ17: 2)」とは、人はまともに太陽を見ることができないのですから、この時の主イエスのその輝きは人の目には眩しくてまともに見ることができないほどであったのです。
今まで、弟子達は自分達と全く変わらない人間としての主イエスを見ていました。
しかし、今、弟子達の目の前におられる主イエスは「神の御姿であられる(ピリピ2:6)」お方としての、栄光に輝く主イエスです。
約一週間前、ペテロは「神のキリストです。」と信仰告白しました。その信仰告白通りの、神としての御姿が、今、彼等の目の前にあるのです。
しかも、そこでは「モーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合っていた(30)。」のです。いったい何を語り合っていたのでしょうか。
それは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について(30)」でした。
この「最期」とは、ギリシャ語では「エクソドス(英語で「エクソダス」)」で、エジプトで奴隷であったイスラエル民族のエジプトからの脱出を意味する言葉です。
そして、エジプトへの神のさばきであり、イスラエル民族の救い<奴隷からの解放>のしるしとして、子羊を屠り、その血を門柱とかもいに塗る事、後の「過越の祭り」が示している究極の意味とは、神の御子、主イエス・キリストによる救いの事です。
ですから、その話されていた事は、主イエスの十字架について、すなわち、主イエスが全人類の罪の贖いのために死なれるという、父なる神の御心<ご計画>についてでした。
モーセとエリヤは旧約聖書を代表する偉大な指導者です。モーセは律法、エリヤは預言の代表者です。おそらく、主イエスは彼らと神の御言葉である聖書(この時点では旧約聖書)から、父なる神の御心について話し合っておられたのです。
三人の弟子達は、主イエスと共に祈っていた様ですが、いつのまにか、眠くなっていた様です(32)。しかし、この光り輝く光景に圧倒され、眠気もどこかに吹き飛んだのでしょう。
そして例によって、ペテロが「口出しして(マタイ17: 4<新改訳第3版>)」主イエスに言いました。
「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。(33)」と。
日本人に分かり易く言うならば、ペテロは「イエス神社と、モーセ神社と、エリヤ神社を造りましょう。」と言ったのです。
ペテロはまたも大きな失敗を重ねてしまいました。彼は、主イエスを「神のキリストです。<生ける神の子キリストです。>」とまで信仰告白した者でありながら、主イエスをモーセとエリヤと同列に置いています。
しかし、彼の信仰告白「あなたは、生ける神の子キリストです。(マタイ16:16)」に対して、主イエスが「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉<人間>ではなく、天におられるわたしの父です。(マタイ16:17)」と言われた事の事実が、ここで「再び」明らかになります。
「再び」と言うのは、彼は前にも、立派な信仰告白をした後に、主イエスが弟子達に、これからご自分を待ち受ける様々な苦難、すなわち十字架と復活の預言をされた時、彼が「そんなことがあなたに起こるはずはありません。(マタイ16:22)」と言った事があったからです。
主イエスは「神のキリスト<生ける神の御子>」であります。モーセとエリヤは偉大な指導者でしたが、神の被造物<人間>にすぎず、神ではありません。
ですから、ペテロが口出しした言葉は、主イエスを尊敬しての言葉ですが、彼の神観、キリスト観が全く人間的なものであった事を露呈してしまっています。
神は、ペテロが思い描く、人間の造った幕屋に鎮座ましますお方でありません。
神殿を建てたソロモン王は「神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことことです。(Ⅰ列王記8:27)」と、主なる神に信仰告白しています。しかし、ペテロには、その神観もなかったようです。
パウロは偶像の町アテネで真の神について教えた事があります。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。(使徒17:24~25)」と言っている通りです。。
では、私達はどうでしょうか。私達も、神の御子、主イエスを自分の思いの中に、人間的レベルに引き下げてしまってはいないでしょうか。
私達が神を神として崇めているかどうかを、自分で知る簡単なテストがあります。それは、私達が私達の生活の中で、聖書の言葉<神の御言葉>を本当に信じているかどうか、という事です。神を神としているなら、神の御言葉に信頼する事が出来るからです。
さて、ペテロがわけの分からないことを言っているうちに、雲がわき起こって弟子達をおおい、彼らが雲の中に入ると、その雲の中から、「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」と言う声がしました(34~35)。
「これは、わたしの選んだ子。」という御言葉は、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたときに、天から告げられた「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と言われたのと同じ意味の御言葉(ルカ 3:22、マタイ 3:17、マルコ 1:11)です。
何故、再びこの御言葉が語られたのでしょう。それは、ペテロの主イエスに対する信仰告白「神のキリスト<生ける神の御子キリスト>」を、確かに裏付ける御言葉として、再び天から告げられたのです。
父なる神は、「ペテロ達よ。お前の主イエスに対する信仰告白を、今、わたしが確かにする。」と仰ったのです。
故に、父なる神は、「彼<主イエス>の言うことを聞け。」と告げられたのです。
「主イエスの言うこと」とは、ペテロの信仰告白の後、主イエスが「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない(ルカ 9:22)」と語られた、あの十字架と復活の事です。
しかし、ペテロ達は、その御声を聞いても、結局のところ、この御言葉を受け取ることができませんでした。
何故なら、彼らは自分達の神観、キリスト観に固執していたからです。
彼らにとって、栄光に満ちた主イエスがこの地上に君臨するというのなら理解できますが、主イエスが苦しまれ、死ぬ、などというキリストの姿は、彼らの思考を遙かに超えていて、理解しがたい、いや、理解したくない事だったからです
彼らが真に理解したのは、主イエスが全人類の罪の贖いのために十字架で死なれ、三日目にその死に勝利して復活され、昇天された後、聖霊を受けてからです。
後に、御霊に満たされたペテロはこの事件の目撃者として、栄光の主イエス・キリストを証言しています。「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』私たちは聖なる山で主と共にいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。(Ⅱペテロ1:16~19)」と言って。
「確かな預言のみことば」とは、約束を違えない神の御言葉のことです。
「夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまで」とは、主イエスの再臨の時のことです。
「暗い所」とは、現実の世であり、人生でしょうか。
しかし、その「暗い所を照らすともしび」として、神の御言葉は確かであり、最高なのだと証言しています。
かつてペテロは、主イエスの御言葉を聞いていても信じてはいませんでした。しかし、御霊を受けた彼は、唯一の確かな拠り所として神の御言葉を持っています。
そして、御霊に満たされたペテロは気づきました。かつて、自分は主イエスが栄光の主に変貌したと思っていた。しかし、その栄光の主イエスの御姿は、本当は本来の主イエスの御姿であったことを。主イエスの変貌とは、神の御姿であられるお方が人となって下さった事であると。
この栄光に満ちた主イエス・キリストが、彼と同じ人間となって、同じ弱い立場に立って、共に苦しみや悲しみを味わって下さったばかりか、ついに彼の罪を負われて、十字架で死なれるほど、彼を愛して下さっている事に気が付いたのです。
私達キリスト者もまた、ペテロと同じ様に神によって「神のキリスト<生ける神の御子キリスト>」と告白できる者とされています。
神を神として崇め、神の御言葉を真実確かなものとして受け取っています。主イエス・キリストの十字架の愛の故に。
そして、「主イエスの言うこと(35)」また「これらの教え(28)」にこそ、「日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカ 9:23)」と言われた、主イエスの命令があるのです。
しかし私達が、この命令に従うなら、希望があります!
その希望とは、主イエスの弟子達が目撃した、十字架の死に勝利した復活の栄光です。苦難の先の希望です。
苦難と言っても、私達の苦難と、主イエスの苦難とは、比較にならないものです。
主イエス・キリストの苦難、すなわち、十字架の死とは、神の御子が父なる神に捨てられるという事です。
ですから、主イエスは十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27:46)」と悲痛の叫び声を上げられたのです。
しかし、私達は、キリストの十字架の死<神の御子、主イエスが父なる神に見捨てられる、というさばきを私達の身代わりとして受けて下さった事>の故に、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない(ローマ 8:39)」のであって、「圧倒的な勝利者(ローマ 8:37)」となる事ができるのです。
そして「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えて下さる(ピリピ 3:21)」と約束して下さっています。
ですから、私達は、神が私達に負わせて下さる十字架を避けて、安易な道を選んで、信じれば何か良い事があるなどというレベルの<御利益>信仰に甘んじていてはなりません。そんな勿体ない事はありません。そう思いませんか?
確かに、私達の人生には多くの苦難(罪との戦い、サタンの誘惑との戦い)があります。
しかし、「私たちの一時の軽い患難は、それとは比べものならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。(Ⅱコリント 4:17)
私達が負わされる十字架の、その向こうには、必ず輝く希望、主イエスの輝く御姿があるのです。
ここで最近、私のごく身近な人が体験することになった正に人生が激変してしまった経験をお分かちしたいと思います。詳しい事は避けますが、その人は懸命に日々信仰と仕事に打ち込んで来た人でした。
ある日、不調を感じ、病院を受信すると、かなり進んだ口腔がん(舌がんを含む)との事でした。命が救われる為には十時間にも及ぶ手術が必要で、その手術は、顔と首を大きく切って、顔の皮を剝がし、上顎の歯と歯茎と頬の肉を取り除き、その部分の再建に、腕の肉を血管毎移植し、そこをまた太ももの肉で修復するという、いちどきに三箇所の大手術をするという、にわかには、了解し難い手術内容だったそうです。
でもその人はその手術を受け入れ、しかし一夜にして顔の機能の殆どと、声、自分のアイデンティー、容貌、仕事の一切を失いました。しかしその人は自分の魂が再び神に向く為に必要だったと「主は与え、主は取られる。主のみ名は褒むべきかな」と言われました。
どれほどの葛藤と涙があったか知れません。でもその先に神にある光り輝く希望を確かに見出したのです。私には到底できませんが、そういう事もあるのです。
ですから、私達は確信しましょう。
主イエス・キリストの十字架の死、苦難は、神の御心<御計画>であって、それは全て神の御手によって成就され、そこには、主イエスの輝く栄光の御姿がある事を!
そして、私達が負わされる十字架、苦難も、同じく神の御心<御計画>であって、その全ては神の御手によって完成されるのです。
思い出しましょう。私達が負わされる十字架(罪との戦い、サタンの誘惑との戦い)の向こうには、必ず、輝く栄光の御姿を仰ぎ見る希望がある事を!
それ故に神は、今日も、私達に命じておられます。「主イエスの御言葉を聞きなさい。」と。お祈りしましょう。
