2026/7/12(日) 『主について行きたいと思いますか?』ルカの福音書9章23〜27節:村松 登志雄 牧師

本日も先週からの続きの箇所です。

先ず、23節「主イエスは、皆に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。(23~24)』」と。
大変センセ-ショナルな言葉です。また有名な御言葉なので、皆さん一度は耳にされたことがあるのではないでしょうか?
しかし、この御言葉は殉教の勧めではありません。もしそうであるのなら、平和に暮らすキリスト者は本物のキリスト者ではないということになります。
また、殉教したキリスト者こそ、本物の主イエスの弟子であるという価値観も、キリストの福音にはありません。それは人間的価値観にすぎません。
殉教という血を流したキリスト者も、平凡に忠実に信仰を貫いたキリスト者も、主イエスの御前では同じように主に愛される弟子なのです。
また、殉教そのものに価値があるのではない事を、パウロは明確に宣べています。「たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても(焼かれるために渡しても<新改訳第3版>)、愛がなければ、何の役にも立ちません。(Ⅰコリント13: 3)」と。

ですから、23節の御言葉の究極の意味は、他の誰よりも、いいえ、「自分よりも、主イエスを愛するか」という問いかけなのです。
あなたが、主イエス・キリストの十字架の愛にどれだけの価値を置いているのかが問われているのです。
そして、この「自分を捨て、日々自分の十字架を負って、(23)」という御言葉は、「皆に言われた(23)」のであって、十二弟子のみに言われたのではありません。マルコは「(イエスは)群集を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。(マルコ8:34)」と記しています。
そして弟子達は、主イエスに「わたしに従って来なさい(23)」と言われましたが、その後、誰一人、主イエスの十字架には従って行くことができませんでした。
しかし、主イエスの十字架と復活と昇天の後、弟子達は、自分の力ではなく、御霊の助けによって初めて「自分を捨て、日々自分の十字架を負って、そしてわたしに従って来なさい。(23)」と言われたこの御言葉に従うことができたのです。
また、この「自分の十字架を負う」という御言葉は、「人生の重荷を負う」という事ではありません。何故なら、主イエスは私達それぞれの人生の重荷をもう共に担って下さると約束して下さっているからです。
主イエスの御言葉にこうありますね。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28~30)」と。

では第一に、主イエスが言われた「自分を捨てる(23)」とはどの様な事でしょうか? 
「自分を捨てる」とは、自分の個性も自分らしさも捨てて、ただロボットのように従えという事でしょうか。もちろん違います。
しかし、この「自分」という存在がとても厄介なものであることにお気づきでしょうか。
私達はいつも「自分はこうありたい」とか、「自分はこうあるべき」とかの自分中心の思いに振り回されているという事に気が付いているでしょうか。
たとえそれが良い事であっても、主イエスが自分に最善をなして下さることを待つよりも、自分で事を為し得ようとしてしまう、、、これが私達の持っている特性(罪性)なのです。
その罪性とは、心の王座にキリストを据えるのではなく、自分を据えているという事です。自己中心を捨て、神中心に生きる、という事が自力ではできない、という事実です。何故ってそれは御霊の力によるものだからです。

しかし、主イエスが私達に命じておられる「自分を捨てる」事とは、単なる自己否定、自分を失うことではなく、「神にある最高の自分を発見しなさい」という事なのです。

そして、この自己否定の最高のモデルが、「わたしに従って来なさい」と言われた主イエス・キリストです。
御言葉に「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われた(ピリピ2:6~8)」と自己否定の形を示し、「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、膝をかがめ、全ての舌が、『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:9~11)」とその自己否定の本質を宣べられています。
私達の王、主イエスは、神であられる事に固執されず、父なる神の御心に従われたが故に、栄光を現されたのです。

ですから「自分を捨てる」とは、自分で生きることをやめ、主に生かされ、主の恵みの中に生きるのが最高の生き方であると知ることです。
人間の自我、自己中心の究極である成功思考によって生きるのではなく、御国の恵み思考に生きることです。
言いかえるなら、「自分を捨てる」とは、自分で自分自身に目を向けることから開放され、神の目から「高価で尊い(イザヤ43:4)」と愛されている自分を見ることです。

では第二に、主イエスが命じる「日々自分の十字架を負う」とはどの様な事でしょうか
キリストの受難あるいは苦難を私たちも負うべきだということでしょうか。
確かに、殉教者はそのような経験をしています。そして、その殉教者達を励ます御言葉でもあります。
しかし、この「日々自分の十字架を負う」との御言葉は、その狭い意味に限定するのではなく、それは「自分を捨てる」ことと、同義語と考えてもよい深い関わりを持っています。つまり、十字架とは、自我、自己中心の罪のことです。
そもそも主イエス・キリストの十字架とは、いったい何であったのかを思い出しましょう。十字架の出来事だけを見つめると、受難というイメージだけに焦点を当てられ、「自分の十字架」と言われると、犠牲を強いられるようなイメージを持ってしまいがちです。

しかし、十字架とは「罪のさばき」です。私達の罪のさばきです
ですから、「自分の十字架」とは、「自分の罪、すなわち自我、自己中心の罪」です。
しかし、その罪は、すでに主イエス・キリストが負って下さり、救いを得ているはずです。では、どの様な意味になるのでしょうか?
「自分の十字架を負う」とは、自分が主イエス・キリストの十字架による血の代価によって買い取られた者であることの自覚、すなわち救いの確信をしっかりと持って、自分の十字架を負う、という意味です。

私達は、パウロの様に、自分自身が抱えている自我、すなわち罪を、自分でどうする事もできない者である事を、本当に自覚しているでしょうか。
私達が、自分の罪性を忘れない事が、「自分の十字架を負う」という事なのです。
主イエス・キリストが負って下さらなければ救われなかった私の罪とはどの様に恐ろしいものであったのかを知り続けることが、自分の十字架を負うという事なのです。

パウロはかつての私達がどの様に救い難い者であったかを宣べています。
「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことをを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ 2: 1~ 3)」と。
その深い自覚があってこそ、恵みの中で(エペソ 2: 4~ 8)、「自分を捨てる」事が出来るのです。
主イエスが言われた「わたしについて来たいと思うなら」という御言葉は、言いかえるならば、「わたしを愛しているなら」ということです。
主イエスが、ペテロに問われた「あなたは、わたしを愛していますか(ヨハネ21:15~17)」と同じ意味です。
ですから、当然、主イエスにどれほど愛されているかが分かっていない人は、すなわち自分のどうしようもない罪性を正面から見据えていない人は、主イエスの「驚くばかりの恵み<愛>が分からないので、主イエスの愛に喜んで応答し、主イエスに従うことができません。

自分の人生が自分のものであると錯覚し、自分の人生に自分の主権を置くという事がすなわち「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失う(24)」事なのです。
主イエスに従うよりも、自分の肉の思い、すなわち私の満足、私の誇り、私の価値を守りたいという自分に固執するのは、結局全てを失う人生である事に気がつかないのです。
私は私自身のものではなく、主のものであり、主のものとして生きることが最高であることを知ることが、主イエスが言われた「わたしのためにいのちを失う者は、それを救う(24)」という事です。
「それ(24)」とは、主イエスによって与えられる栄光(ピリピ3:20~21)であり、「神の国を見るまでは、決して死を味わわない(27)」、すなわち、主イエスの再臨のときに約束されている「朽ちないものによみがえる(Ⅰコリント15:52)」希望です。

主イエスは「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。(25)」と弟子達<私達>に問いかけます。
「全世界を手に入れる」とは、全てが自分の思いのままになるということでしょう。
しかし、人類の歴史上において、最も栄耀栄華を極めたと言われるソロモン王は、それが空しいと宣べています(参照;伝道者の書)。
真の意味において「自分を生きる」ということは、自分の思いのままに生きることではなく、主イエス・キリストに従って生きることです。それ以外の人生には何の価値もありません。
主イエスは「わたしについて来なさい」と、私達をご自分の栄光の道に招いて下さっているのです。
ですから私達は、主イエスの御跡をついて行くべきなのです。そして、主イエスが全ての道を先に行って下さるのであって、決して私達が先に行ってはなりません。
ペテロはこう宣べています。
「このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。(Ⅰペテロ 2:21)」と。
そしてパウロはそれをこう宣べています<言い替えています>。
「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。(ピリピ 1:29)」と。
「キリストのために苦しむ」とは、ペテロが宣べている「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。罪を犯して打ち叩かれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。(Ⅰペテロ2:19~20)」と。
「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」事は、「自分を捨て」られなければできません。少しでも、自分が正しい、と思う者には不可能な事です。「何で、私が!」と、怒りと恨みに支配されるのが落ちです。

しかし、「(主イエス)キリストは罪を犯したことが無く、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった(Ⅰペテロ 2:23)」お方です。
主イエスの御跡に従うなら、主イエス・キリストが負われた全人類の罪の贖いの為の十字架と自分の十字架との違いは明らかになります。
しかし、主イエス・キリストは、御自分の負われた十字架によって、私達の負う十字架を「罪を犯した事が無い」ものにして下さったのです。それが驚くばかりの「恵み(エペソ 2: 5~ 8)」なのです!

ですから私達は、自分の力や努力によって、自分の人生を歩むのではなく、主イエスが備えて下さった私達の人生の道<与えられた使命>を歩む事の幸いを知りましょう。
主イエスが、私に最善をなして下さることを信じて、主イエスが私に素晴らしい使命を与えて下さっている事を信じ、主イエスに喜んで従う人生こそ、私が私として真に生きる最高の人生なのです。

それならば、さあ今朝、私達は私達の人生の中心に、主イエス・キリストを置き、主イエスを慕い、何処までも主イエスの御跡に従う者にならせていただこうではありませんか!