本日は二人の女性の癒しを同時に取り扱った箇所ですが、この主イエスによる長血を患う女性の病の癒しと会堂司ヤイロの娘が死から生き返った奇蹟は、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書に、同じ様に一纏めで記されています。
三人の福音記者が、別々の奇蹟でありながら、一纏めの奇蹟として記しているのは、現実にその通りの順序で起こった事の証拠でもあります。
しかし、一纏めと言っても、別々の奇蹟ですから、まず、別々にこの奇蹟を観て、最後に、この奇蹟を経験した二人の相違点と共通点を探り、主イエス・キリストの病の癒しと死人を生き返らせた奇蹟の意味を考えたいと思います。
まず、主イエスの御許にやって来た会堂司ヤイロは、主イエスの足下にひれ伏して、十二歳ぐらいになる彼の一人娘が死にかけているので、主イエスに自分の家に来ていただきたいと願いました。
主イエスはその願いにお応えになって、主イエスの弟子達とともに、会堂司の家に向かったのですが、その途中で、十二年間長血をわずらった女性が、主イエスの着物の房に触って癒されるという事件がありました。
この女性は、主イエスから「娘よ,あなたの信仰があなたを救ったのです。(48)」と宣言されました。
では、この女性の信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。
それは、「大勢の人たちが、(あなたを囲んで)押し合っている(45)」中で、「(主イエスの)衣の房に触れた(44)」信仰です。
福音記者マタイ、マルコによれば、「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる(マタイ 9:21、マルコ 5:)」という確信です。すごい信仰です。
マルコは「彼女は、イエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。(マルコ5:27)」と記しています。おそらく、多くの人々を癒された主イエスの評判を聞き知っていたからに違いありません。
そしてマルコは、この女性が主イエスの癒しにすがるに至るまでの経過を「彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。(マルコ5:26)」と記しています。
彼女のその悲惨な生涯に、同情せずにはいられません。主イエスの御許に来た彼女の様子を、マルコは「群衆とともにやって来て(マルコ5:27)」と記していますので、彼女は人前に堂々と出て、主イエスに癒しを願ったのではなく、できるだけ目立たない様にして、主イエスの御許に来たことがわかります。
その理由は、彼女がその病の苦しみに加えて、社会的にも疎外されていた女性であったからです。「長血」とは、血が漏出する病であり(出血性子宮内膜炎、子宮癌か?)、ユダヤ人社会では汚れた者とされていたからです。(参照;レビ15:25~26)
ですから、この女性は、会堂司ヤイロの様に、自分の家に来て下さいなどとお願いする事もできなかったのです。
彼女は必死の思いで、主イエスに群がる群衆に気づかれないように、「彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた(44)」のです。「すると、ただちに出血が止まった。(44)」のです。
彼女は癒されました。しかし、彼女はそのまま身を隠したたままで、そっと帰るつもりでした。彼女にとっては、病が癒されることだけが願いだったからです。
しかし、主イエスはその彼女をわざわざ、群衆の前で、彼女に信仰告白をさせました。
何故でしょうか。その理由は、主イエスの病の癒しの目的は、単なる病の癒しではなく、彼女の全人格的な癒しを与える為です。その事を公にしようとされたのです。彼女がユダヤ人社会において、社会的、宗教的に疎外されていたからです。
彼女を公に、ユダヤ人社会に認めさせるために、主イエスは群衆の前で、彼女に信仰告白をさせたのです。
また信仰告白と言っても、「彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスに触った理由と、ただちに癒された次第を、すべての民の前で話した。(47)」だけです。彼女は自分の身に起こった事実を話したにすぎません。
しかし主イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい(48)」と言って下さいました。
マタイやマルコが記している、彼女の「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる。」という信仰は確かにすごいと思いますが、彼女が癒された後の行動を見ると、彼女の信仰とは、真に、主イエスに対する絶対的な信仰であったのでしょうか、と思うのです。
本当は、そう思うしかない、せっぱつまった、藁をもつかむという信仰であったのではなかったでしょうか。これでダメならもうあきらめるしかないという信仰であったのではないでしょうか。
何故なら、彼女は癒されたにもかかわらず、主イエスに感謝をささげるのではなく、そっと帰ってしまおうとしたのです。
主イエスに対する信仰が第一ではなく、自分のことが第一だったのです。確かに、社会的に疎外されていた女性であったのですから無理もないとも考えられますが、それでもまだ、全人格的に癒されてはいなかったのです。
しかし、主イエスはその信仰を、主イエスに対する真の信仰にまで引き上げて下さったのです。何故なら信仰も「神からの賜物(エペソ 2: 8)」だからなのです。
では次に、主イエスによる会堂司ヤイロの娘が死から生き返った奇蹟を観てみましょう。
ヤイロの娘は「死にかけて(42)」いましたが、まだ死んではいませんでした。しかし、主イエスが会堂司の家に行く途中で、長血を患った女性の病の癒しに手間取った為に、間に合わず、何と、会堂司の娘は死んでしまいました。
「会堂司の家から人が来て言いました。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。(49)}と。
しかし、主が,動揺する会堂司に言われました。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。(50)」と。会堂司がもうだめだと思ったことは間違いありません。
そして主イエスは会堂司の家に入られると、娘の為に集まって泣き悲しんでいる人々に対して言われました。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。(52)」と。
しかし、人々は、娘が死んだ事を知っていたので、主イエスをあざ笑いました。
しかし、主イエスは、娘の手を取って、叫んで言われました。「子どもよ。起きなさい。(54)」と。すると、「少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。(55)」のです。
死からの生き返りの奇蹟もまた、長血を癒された女性に与えられた、主イエスの「信仰宣言」と同じ様に、主イエスの御言葉によるものでした。
この奇蹟においても、主イエスが天地創造の神であり、すべての権威(マタイ8:27)をお持ちのお方である事が示されています。
会堂司の信仰でもない、もちろん、死んでしまった娘の信仰でもない。ただ、主イエスの憐れみにより、いのちの源である主イエスの御言葉の権威によって、死人が生き返るという奇蹟がなされたのです。
最後に、この奇蹟を経験した二人の相違点と共通点を探り、その事から、主イエス・キリストによる長血の女性の病の癒しと会堂司の娘が死から生き返った奇蹟の意味を考えたいと思います。
まず、二人の違いを見ましょう。二人の境遇はあまりにも違います。二人は正反対の境遇にありました。
長血の女性の人生は、治る見込みのない病いと社会的疎外とに苦しむ不幸な人生でした。一方、ヤイロの娘の人生は、蝶よ花よと育てられていた人間的には幸せな人生でした。
では二人の共通点は何でしょうか。二人とも、主イエスの救いによって人生が変えられた事です。長血の女性の十二年の苦しみは、主イエスに出会った事によって、益と変えられました(ローマ8:28)
彼女の苦しみの十二年間は、主イエスの救いを得る為であり、主イエスの栄光が現される為にあったのです。
ヤイロの娘の十二年間は人間的には幸せでした。しかし、その幸せは死によって打ち砕かれました。しかし、彼女の死は、どうすることもできない死にさえ勝利を与える主イエスの御力に救われる為であり、主イエスの栄光の御業が現れる為でした。
信仰がある云々ではなく、勝利の主イエスがおられるからこそ救いがあるのです。その救いを二人の女性は経験したのです。
再び、二人の女性の共通点を言うならば、やがて二人とも死ぬということです。
しかし、主イエスの病の癒しと死人を生き返らせる奇蹟の御業は、その背後にある根本的な罪からの解放<救い>、永遠のいのちに至る事を意味しています。
この聖書箇所に登場する多くの人々は、この病を癒し死人を生き返らせた主イエスを、単に奇蹟を行う不思議な人としてしか見ていなかった様です。何故なら、人々が神を賛美した様子がないからです。
しかし、私達は、この病の癒しと死人の生き返りの奇蹟に、神の国の福音の具体的な現れが示されていることを観るべきです。
聖書は預言しています。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。(黙示21:3~4)」と。
この預言は、十字架と復活の主イエスによって確かに約束されています。
私達の人生には、自分ではどうする事もできない多くの悲しみ、苦しみがあります。私達には慰めや励ましが必要です。
しかし、その慰めや励ましが、ただお互いの傷を嘗め合うだけであったり、その場限りの一時的なものであるのなら空しいだけです。
そのような慰めや励ましではなく、絶対的な勝利と希望を与える慰めや励ましこそ必要です。それは、十字架と復活の主、死に勝利されたお方(Ⅰコリント15:52~57)、主イエス・キリストにあります。
ですから、私達はいつも主イエスに希望を持つ事が出来るのです。
主イエスに希望を持つ人生とは、人生のどんな状況の中でも、主イエスから慰めを受け、癒され、御力を頂いて生きる勝利の人生を歩む事です。
私達は、主イエス・キリストによって、すでに、死にさえ勝利する人生を与えられている事を決して忘れてはなりません。それこそが信仰です。
しかし、信仰とは、祈るなら必ず癒される、とか、熱心に祈るなら必ず聞かれる、という類のものではありません。
その信仰が間違っているとは言いませんが、その信仰のあり方に危険性があります。その危険性とは、その信仰が自分を主体としている事にあります。
私達が持つべき信仰とは、私達の神は、どんな病をも癒す事がおできになるお方であり、死も意味を為さない、永遠のいのちの根源であられるお方であり、天地創造の神であり、全知全能の神である事を徹底的に信じる事です。
そして私達の信仰による祈りの大前提は、その確信に立っている事です。
福音記者ルカは、嵐を静められ、悪霊を滅ぼされ、病を癒され、死人を生き返らせた、このお方を見よ、と指し示しているのであり、奇蹟を見よ、とは宣べていないのです。
ですから、私達は今日も「信仰の創始者であり、完成者である、この主イエスから目を離さないで(ヘブル12: 2)」歩もうではありませんか!
