2026/6/21(日) 『あなたがたが、』ルカの福音書9章10〜17節:村松 登志雄 牧師

本日は“5千人の給食”と呼ばれる記事を見て行きますが、この五つのパンと二匹の魚による5千人以上の人々を養った奇蹟は、主イエスの復活を除いて、四福音書全てに記されている唯一の奇蹟です。(マタイ14:13~21、マルコ 6:31~44、ヨハネ 6:1~15)。ですから、主イエスの弟子達にとって、この奇蹟は忘れることのできない大きな体験であったことが分かります。
本日は、ルカを中心としますが、他の福音書も参考にして全体から学んで行きましょう。

ルカはこの奇蹟が行われた場所を「寂しい所(12)」記しています。マタイは、「人里離れたところ(マタイ14:15)」、マルコも「人里離れたところ(マルコ 6:35)」、ヨハネは「イエスは山に登り(ヨハネ 6: 3)」と記しています。ですから、「人里離れた、寂しく辺鄙な何処かの、おそらく、小さな山」であったのでしょう。
それにしても、群衆はよくそんな所まで追いかけてきたものです。それほど群衆は、主イエスを慕っていたのでしょう。その群衆を「主イエスは喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒しの必要な人たちをお治しになった。(11)」のです。

しかし、「日が傾き始めた(12)」ので、主イエスの弟子達は「群衆を解散させて下さい。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿を取り、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから」と言いました。それは当然です。
「人里離れた、寂しく辺鄙な何処かの山」で、どうして食糧を調達できるのでしょうか。
しかしヨハネは、主イエスが、「大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた『どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。』(ヨハネ 6: 5)」と相談されたと記しています。
ですから、主イエスがこの奇蹟を行われた動機の一つは、群衆一人一人をご自分の事として心配される「愛」からであったことが分かります。
主イエスは群衆の一人一人の現実の生活を心配されるお方です。
主イエスというお方は、霊的な事だけが大切な事で、現実の日常生活、衣食住の事はどうでもよいとお考えになるお方ではありません。
主イエスは、「主の祈り」において「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。(マタイ6:11)」と祈るようにと、弟子達に教えておられます。

また主イエスは、以前、山上に集まった群衆に「まず神の国と神の義を求めなさい。(マタイ 6:33)」と命じておられますが、「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて<貴方がたに必要なものは>与えられます。(マタイ 6:33)」と約束しておられます。
今、この奇蹟において、主イエスの御言葉が確かであることが証明されています。

しかし、この奇蹟を体験している群衆が、はたして真の意味で、神の国と神の義を第一に求めたかと考えると、おそらく、主イエスの病の癒しだけを求めて、ついて来た人々に過ぎないのではないかと思うのです。
マルコは、それでも主イエスは、主を追いかけて来た「大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。(マルコ 6:34)」と記しています。「多くのことを教え始められた」とは、ルカの言う「神の国のこと」です。
私達の主イエスは群衆一人一人に憐れみの心を持っておられるお方です。たとえ、見当違いな期待を主に寄せていたとしても、主の御許に来る人々を、主イエスは決して見捨てる様な事はなさらないのです。

そして今、主イエスは、弱り果てた群衆を憐れんで、奇蹟をなさいました。主イエスの奇蹟はいつも「愛」が動機なのです。
しかし、主イエスご自身はご自分の為に奇蹟を行うことは決してなさいませんでした。荒野で四十日四十夜の断食の後、サタンに「この石がパンになるように命じろ」と誘惑されたときも、決してご自分の必要の為にそれをなさいませんでした。ただ「神の御言葉」のみに信頼をおかれました。(参照;ローマ15: 1~ 3)

主の弟子達は、主イエスと共にいた者達でしたが、非常に現実的であり、「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい(13)」と言われた主イエスに対して、「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません(13)」と、その事実を伝えただけではなく、それに加えて、「私たちが出かけて行って、この民全体のために食べ物を買うのでしょうか?(13)」と、これだけでは何の足しにもならないじゃないかという思いで、どうにもならない現実を理解しない主イエスに苛立っているようにも思えます。
彼らは、自分達と共にいて下さる主イエスがどの様なお方であるかをまだ分かっていなかったようです。
彼らが、主イエスを神の御子である、と信じていたのなら、思い出す事が出来たはずです。
神はかつて、荒野を旅するイスラエルの民に天から<パン>を降らせ、彼らを養われたこと(出16: 4~36)を。
しかし後に、この奇蹟を通して、主の弟子達の代表であるペテロが「あなたは、生ける神の子キリストです。(マタイ16:16)」と告白します。
ですから、主イエスがこの奇蹟をなされた動機のもう一つは、ご自分が神の子であられることを、弟子たちに分からせるための実地教育でもあったのです。

「私たちには、五つのパンと二匹の魚しかありません。(13)」と主イエスに答えた弟子達に対し、マタイは、主イエスが彼らに「それをここに持ってきなさい。(マタイ14:18)」と命じた事を記しています。
そして、主イエスは、弟子達に「人々を、五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。(14)」と命じました。
「すると主イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。(16)」のです。
それで「人々はみな、食べて満腹した。(17)」のです。しかも「余ったパン切れを集めると、十二かごあった(17)」のです。
マタイは、「食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。(マタイ14:21)」と記していますから、女と子どもも含めるなら、実に一万人近い人々が満腹した事になります。

さて、主イエスが「天を見上げて、それらを祝福して裂き」とは、マルコが「天を見上げて神をほめたたえ(マルコ 6:41)」られた、と記しているように、御子なる神、主イエスが、父なる神に祝福を求めて、人としての祈りをささげられた事を意味します。

そして、ヨハネは、主イエスがその祈りにおいて「感謝の祈りをささげて(ヨハネ 6:11)」おられる事を記していますから、主イエスは、父なる神に祝福を求めて祈ったと同時に、父なる神からその祝福を受けておられることが分かります。
主イエスは「あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。(マルコ11:24)」と約束されました。
そして主イエスご自身は、人として、いつも確信の祈りをささげるお方でした。
つまり、主イエスは信じて祈る事によって、神の奇蹟の業がなされることの素晴らしさを、主の弟子達に示しておられるのです。

またここで注目して欲しいのは、主イエスはこの奇蹟を本当はご自分で行うことがおできになるお方なのです。何故なら、主イエスは、天地創造の神でもあられるからです。(参照コロサイ1:15~17)」

ですが、主イエスは、この奇蹟をご自分でなさらず、祈りにおいて、すべての賜物は父なる神からのものである、と示しておられます。

そして、主イエスはこの奇蹟において、ご自分の力をお示しになる事よりも、父の御心を行う者としてのご自分を何より重要な事として、示しておられるのです。
そして、さらに主イエスはこのようにも言われました。
「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。(ヨハネ8:54)」と。
ですから私達キリスト者は、主イエスに倣って、何事においても主の御心を祈り求め、自分ではなく、主が働いて下さることを覚え、主の栄光を求める者でありたいと願います。  

最後に、主イエスの行われたこの奇蹟の目的、この奇蹟によって弟子達に何を教えようとされたのかを学びましょう。
主イエスは弟子達に「あなた方があの人たちに食べる物をあげなさい。」と命じられました。
この奇蹟は、神の御業以外の何ものでもありません。それなのに何故、主イエスは「あなた方が、行いなさい。」と言われたのでしょうか。
この御言葉が意味するのは、主イエスの奇蹟の御業は、今日も私達キリスト者を用いてなされる、という事です。
そして主イエスは「食べる物をあげなさい。」と命じられましたが、決して、「できないことをしなさい」と言われたのではありません。
何故なら、現実には、主イエスがその御業、奇蹟を行われたのですから。

しかし、私達は主のご用の為に、自分の賜物がわずかしかないと思い、それを差し出すことをしないことがあります。主のご用にはとても役立たないと自分で判断します。
しかし、勘違いしないで下さい。主の働きは主が行われるのです。
たとえ、あなたの目でわずかしかない、何の役にも立たないと思ったもの<自分>であっても、主の御前にそれ<自分>を差し出すべきです。
主イエスは弟子達に「それを、ここに持って来なさい。」と命じられました。そして、弟子達は、主の御前に命じられるままにそのわずかなものを差し出しただけです。

しかし、そのわずかなものを、主が幾倍にも増やされました。しかも、主イエスはそれをまた、弟子達に返されました。彼らが群衆に与えるものとして、くださったのです。そしてそれは何と、有り余る豊かなものと変えられたのです!
弟子達はこの事を通して学びました。私達のたとえわずかなものであっても、主の御前に差し出すなら、主は、それを豊かに用いて下さり、主の奇蹟の御業に参与させて下さるということを。主は、あなたの今そのままでの献身を求めておられるのです。
主イエスは私達キリスト者に約束して下さっています。「まことに、まことに、あなた方に言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います(ヨハネ14:12)」と。

御言葉を味わい、一人一人今、心に誓いを立てましょう。
主よ、どうか、私をお用いください、と。