本日もルカの福音書の続きを見て行きましょう。
少し前の箇所で見て来ましたが、主イエスは、山で夜を徹して祈られ、十二弟子<使徒>を選ばれました(ルカ6:12~13)。しかし、その十二弟子達は一人として、選ばれるに相応しい者達ではありませんでした。
何故なら「神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有る者を無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれた(Ⅰコリント1:26~28)」からです。
しかし、彼らは、主イエス・キリストの十字架と復活の後に、御霊によって相応しい者に変えられました。
そして、私達もまた、彼らと同じ様に選ばれた者であり、主イエス・キリストに任命され遣わされているキリストの使節(Ⅱコリント 5:20)なのです。
この認識を新たにしながら、彼らをキリストの使節として派遣された主イエスの命令を学んで行きましょう。
第一に、3節で主イエスは何故、「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。」と、着の身着の儘で、旅に出よと命じられたのでしょうか。
もし、この御言葉通りに今日も行わなければならないとするなら、今日の宣教師はみな失格です。そして、この文字通りの命令は今日においては非現実的に思えます。
この逗子福音教会に関わりのあるセンド国際宣教団の宣教師は、母国<主に米国>の諸教会からのサポートが基準に達しない限り、来日する事が出来ません。
しかし、この出来事は7節で「国主ヘロデは、この全ての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。」と記されていますので、この事は異邦人社会にではなく、当時のユダヤ人社会で行われていた事が分かります。
そして、この時代のユダヤ人社会の習慣を知るなら、決して非現実的な命令ではないのです。
と言うのは、当時のユダヤ人社会では、神に仕える人は、神を敬うユダヤ人達の家々で、もてなしを受ける事を期待できたからです。
古くは、アブラハムの時代に遡ってその習慣がありました。三人の旅人がアブラハムの所に来た時、彼は、精一杯のご馳走をしてその旅人<実はその旅人の一人は主であった。>をもてなしました(創18:1~8)。
また福音記者マタイは、派遣する弟子達の不安を取り除き、励ますかの様に、主イエスが「働く者が食べ物を得るのは当然だからです。(マタイ10:10)」と言われた事を記しています。
その事は、当時のユダヤ人社会では、神に仕える者が、神の民にもてなしを受けることが当たり前に行われていた事を示しています。
パウロも「よく指導している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのために骨折っている長老は特にそうです。聖書に『脱穀をしている牛に、口籠をはめてはならない。』また、『働く者が報酬を受けるのは当然である。』と言われているからです。(Ⅰテモテ5:17~18)」と言っています。(参照;Ⅰコリント 9: 1~14、Ⅱコリント 9: 1~15)
ですから、実はこの主イエスの命令は今日も現実的な命令であり、私達キリスト者全てに与えられている命令です。
今日、教会は同じ事を行っています。宣教の働き人は、人にではなく、神に拠り頼み、御言葉を宣べ伝えます。その宣教の働き人の生活を、聖徒達、すなわち私達キリスト者が支えることを神が命じておられます。
海外で働く宣教師達は、ただ神に拠り頼み、御言葉を宣べ伝える為に、あらゆる国に出かけます。そして、私達すなわち神の民キリスト者は、献金によって彼らを支える事を主から命じられています。
ですから、主イエスの命令は、特別な命令ではなく、当然の命令であり、現実的な命令なのです。神の働きの具体的な行いは、神の民によって成されるのです。
次に、主イエスが十二使徒達に命じられた福音宣教とは何かを学びましょう。
主イエスは彼らを「神の国を宣べ伝え、病人を治すために(2)」遣わされました。その中心は「神の国を宣べ伝える」事です。
福音記者マタイは、主イエスが「行って『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。(マタイ10: 7)」と命じておられる事を記しています。
「近づいた」とは、「それはもう来ている。現に始まっている。」という意味であり、主イエスは、「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21)」と、ご自分を示しておられます。
ですから、「天の御国が近づいた。」とは、主イエスご自身のことです。主イエスは、ご自身の宣教の始めから「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)」と宣べておられます。
福音記者マルコは、弟子達が「人々が悔い改めるように宣べ伝えた(マルコ 6:12)」と記しています。「悔い改め」とは、神に向き直る事です。
バプテスマのヨハネが指し示した「見よ、世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネ 1:29)。」即ち、生ける神の御子、救い主、主イエス・キリストを見て信じる事です。
また主イエスは、弟子達に「すべての悪霊を制して、病気を癒す力と権威を、彼らにお授けになった(1)」のです。
これは、主イエスが御自身が救い主である事の証言として、「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことを(バプテスマの)ヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。(ルカ 7:22)」と言われたイザヤ預言(イザヤ53:4)の成就としての救い主の御業を意味します。
最後に、主イエスが「足のちりを払い落としなさい(5)」と言われた事について学びましょう。この行為は、本来、異邦の地を旅をした、ラビ<ユダヤ教の教師>等が、故国の土を踏む前に、足についた異邦の塵を払い落とす行為でした。
主イエスは、弟子達を受け入れなかった町の人々を、異邦人のように扱え、という意味で命じておられるのです。
福音記者ヨハネはこう宣べています。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3:17~18)」と。
十二使徒達が、神の国を宣べ伝えても、信じない者達がいたのです。しかし、十二使徒達は、主イエスに命じられた福音宣教、伝道の責任を果たしています。ですから、その後の責任は、聞いたが受け入れなかった人々の責任なのです。
また、神の見張り人、預言者エゼキエルに対して、神はこのように命じておられます。
「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪しき者に『その道から立ち返るよう警告しても彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル33: 7~ 9)」と言われています。
私達キリスト者はキリストの使節です。ですから、私達キリスト者には、主イエス・キリストを宣べ伝える使命が与えられているのです。
しかし、「宣べ伝える」為には、その宣べ伝えるべきものを持っていなければなりません。主イエス・キリストの救いを経験していなければなりません。
パウロは賜物についてこう言っています。
「皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。・・・・あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。(Ⅰコリント12:29・・・31)」と。
ですから、私達キリスト者の全てが、所謂、伝道の専門家にならなければならないのではありません。賜物はそれぞれ違うのですから。
そして、そのより優れた賜物とは「愛(Ⅰコリント13: 4~ 8)」なのです。そしてその「愛」とは、主イエス・キリスト御自身のことです。
つまり当然の事ですが、主イエス・キリスト御自身の愛を経験していない者に、「福音」、すなわち、主イエス・キリストを伝える事など出来ません。
キリストの使節としての貴方に問われている事は、貴方が主イエス・キリストをどれだけ愛しているか、です。
巷のセールスについても、それを売る人はその売る商品にどれだけ惚れ込んでいるか、にかかっていると言われます。
その商品を愛し、その商品に自信がなければなりません。そしてその人のその商品に対する自信と愛の熱意が、相手の方に、その商品を買いたいという思いを生じさせます。
しかし、その熱意にかかわらず、その結果は、あくまでも相手がどう受け取るかにかかっているのです。
ですから、私達が「キリストの使節」である為の条件は、熱意、すなわち、主イエス・キリストをどれだけ愛しているか、です。しかし、その結果は問われないのです。私達の責任ではないのです。結果を問われるのは相手です。その人と神との関係です。
そして、私達に伝道の専門家としての賜物は要求されていません。しかし、「愛」の賜物は問われています。ここが重要です。愛だけが求められているのです。
貴方は「愛」の賜物を熱心に求めておられますか(Ⅰコリント14: 1)?
もし、貴方に、愛の熱意があるのなら、貴方に出来る事が必ずあるはずです。
まず、愛を追い求めましょう。キリストの愛を徹底的に受け入れましょう。
その愛が溢れ、ほとばしり出るくらいになるまで相手を愛しましょう。
