前回は種まきのたとえから、「実を結ぶ人」について見て来ました。今日はその続きの箇所です。しかし、本日は特に19節~21節を中心に見て行きましょう。前半(19節より前)の部分は後で繋がって来ることが、最後に分かる仕組みになっています。
さて、主イエスが群衆に話しておられるとき、主イエスの母マリヤと兄弟達がやって来ました。福音記者マルコは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方があなたを捜して外に来ておられます。(マルコ3:32)」と記しており、その理由を「イエスの身内の方たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が『イエスはおかしくなった』と言っていたからである。(マルコ3:21)」と、説明しています。
また、安息日破りの主イエスに対する怒りで「イエスをどうするか(ルカ 6:11)」と、主イエスを殺そうとする為(マルコ 3: 6)に虎視眈々としているパリサイ人達の存在も不気味です。そういう背景があって、それで家族の者は心配して、主イエスを連れ戻そうとしたようです。
しかしそこに、母マリヤがいるのです。彼女は、主イエスが神の御子であることを知っているはずです。その証拠を挙げて行きますと、彼女は主イエスの誕生の折には、天の御使いによって「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は、聖なる者、神の子と呼ばれます。(ルカ1:35)」と宣言されました。
その時彼女は「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。(ルカ1:34)」と驚きました。
しかし御使いに、親戚の不妊の年老いたエリサベツが妊娠した奇蹟を知らされ、「神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:37)」と宣言されたことによって、彼女は「御覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(ルカ1:38)」と信仰を告白しました。
また、エリサベツに会いに行ったマリヤは、エリサベツから「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。(ルカ1:45)」とエリサベツから祝福された女性です。
そして、主イエスが誕生した時、御使いに知らされた羊飼い達が赤子の主イエスに会いに来た時も、彼女は「これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。(ルカ2:19)」と言うほど、思慮深い女性でした。
また、主イエスが十二歳になって、両親と共にエルサレムの宮殿に巡礼に行った時、その帰路で、両親は主イエスが帰りの一行の中にいないのに気づいて、捜しながらエルサレムに引き返しますと、何と主イエスは宮殿で、教師達の真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしていて、それを聞いていた人々がその知恵に驚いていました(ルカ2:39~47)。
両親が、少年イエスを咎める(ルカ2:48)と、少年イエスは「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。(ルカ2:49)」と質問されました。
それで彼女は「これらのことをみな、心に留めておいた。(ルカ2:51)」のです。
また、カナで婚礼に招かれ、その婚宴のぶどう酒がなくなった時、母マリヤは主イエスに「ぶどう酒がありません。」と訴え、給仕の者達に「あの方<主イエス>が言われることを、何でもしてください。」と命じ、水が葡萄酒となった奇蹟を見ています(ヨハネ2: 1~11)。これ程までに、母マリヤにはその時々に主イエスの本姓(ほんせい)が伝えられていました。
ですので、そのマリヤが…と思ってしまいますね。しかし、この時の母マリヤは主イエスに対する中傷を信じてはいなかったにしても、危険が近づくその状況を心配し、連れ戻そうとした様です。兄弟達もまた、弟(マタイ13:35)、妹(マタイ13:56)として、兄を思う気持ちからだったと思います。
それにしても、主イエスが群衆に話している時に、「大勢の人のためにそばに近寄れなかった(19)」ので「外に立ち、人を送って、イエスを呼んだ。(マルコ3:31)」のは、主イエスのお話が終わるまで待てないほどに、彼らが主イエスを心配していることが窺えます。
その様子を見た誰かが親切に「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます。(20)」と主イエスに知らせました。
しかし、主イエスは「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。(21)」と群衆に言われたのです。
福音記者マルコは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか。(マルコ 3:33)」と突き放した様に言われた事も記しています
何かここにイエス様のある種の冷徹さを感じませんか?イエス様って、親子の情がないのかなあ…と特に情緒的な日本人は思いがちです。
いいえ、このユダヤ人社会に於いても、主イエスのこの言葉は、血のつながり、系図を重んじ、家族の絆の深いユダヤ人社会でも、あまりにも無情な言葉に聞こえます。
そして福音記者マルコは、続いて主イエスが「自分の回りに座っている人達を見回して『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。』と言われた(マルコ 3:34)」と、記しています。
これはどういう事かと言いますと、パリサイ人達に中傷され、命を狙われている危険な状況の中で、それに惑わされず、主イエスの御言葉に耳を傾けている弟子達や群衆こそ、わたしの家族だと言っておられるのです。肉の家族ではなく、霊の家族こそわたしの家族なのだと。
しかし、主イエスは決して肉親や家族を蔑ろにしているのではありません。それどころか、主イエスは「神と人とにいつくしまれた(ルカ2:52)」人です。当然、両親を愛し、兄弟姉妹を愛した人である事は明らかです。
しかも主イエスは、パリサイ人や律法学者達に向かって『なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒め(「あなたの父と母を敬え」)を破るのですか』(マタイ15: 3~ 6)」と非難しておられます。
主イエスは十字架上の苦しみの中で、十字架のそばで嘆き悲しむ母マリヤに向かって、「女の方御覧なさいあなたの息子です。(ヨハネ19:26)」と言われ、それから弟子のヨハネに、母マリヤを託して「そこに、あなたの母がいます。(ヨハネ19:27)」と言われました。
その時から、弟子のヨハネは彼女を(自分の母として)自分の家に引き取った(ヨハネ19:27)のでした。
しかし、母マリヤには、主イエスのほかに息子四人と娘達がいたのです。それなのに、主イエスは弟子のヨハネに自分の母親を託しておられます。
ご自分の母親を実の息子達にではなく愛する弟子に託したのは、肉親の愛情を越えた、真の愛の家族のあり方を示しておられるからなのでしょう。
また、復活の主イエスが昇天された後、「この人(弟子)達は、婦人達やイエスの母マリヤ、及びイエスの兄弟達と共に、いつも心を一つにして、祈っていた。(使徒1:14)」と記されているように、主イエスの肉の家族が共に祈っているので、肉の家族が切り離されてはいないことがわかります。そして、この時の主イエスの肉の家族も、主イエスの弟子達と共に「心を一つにして」一つの神の家族として祈っていたのです。
さて、本日の聖書箇所の場面に戻りましょう。主イエスを心配して訪ねてきた家族達に対する主イエスのことばは確かに一見冷たく思えます。
しかし、主イエスの家族とは、肉の家族ではなく、霊の家族なのです。
主イエスがこの地上に来られた目的は、「霊の家族」、「神の家族」すなわち「教会」を建て上げる事だったからです。
確かに、その時の彼らの行動は、親として、兄弟としての心配、愛情によるのであっても、それはあくまでも肉の家族としてであって、「神を見ている」のではなく、世の中の情勢を見ていただけだったのです。
主イエスは弟子達に「家の者たちがその人の敵となるのです(マタイ10:36)」と警告しておられます。もちろん文字通り肉親が敵であるという意味ではありません。
しかし、サタンは肉親をも利用するのです。家族の敵対は、この主イエスの家族のように、肉親の愛情からであり、悪意からではありません。
それ故に、私達キリスト者にはこの肉親の愛情によって、神から私達を引き離そうとする力に弱いのです。そこにサタンの巧妙な罠があります。
この時の主イエスの肉の家族は、主イエスに<関するうわさに振り回されて>つまづいたのです。厳しいようですが、彼らは心配のあまり、神の御言葉に信頼を置く事を忘れてしまっていたのです。
特に母マリヤはそうです。彼女はかつて、エリサベツから「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。(ルカ1:45)」と祝福されたほどの人です。しかし、その当時は信仰の人であったとしても、いつも信仰の人であるとは限らないのです。
ですから、私達は、絶えず、主の御言葉に聞き、御言葉に信頼する者でなければならないのです。
人間的にどんなに愛情があったとしても、神の御言葉に信頼しない者は「神の家族」としてふさわしくないのです。たとえ、肉親であろうと、兄弟姉妹であろうと、夫であろうと、妻であろうと。
ですから私達は、しっかりと心に銘記しなければなりません。血縁関係はこの世の一時的なものであり、霊的関係は永遠のものであるということを。
私達キリスト者は、いつも永遠の視点に立つ者として召されている事を忘れない様にしましょう。そうでないと、この地上のこと、肉的関係に振り回されてしまうからです。
主イエスは、弟子達と群衆に「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。(21)」と言われました。
この時確かに、弟子達や群衆は、主イエスの御言葉に耳を傾けていました。しかし、主イエスが十字架の死に臨まれたとき、弟子達は裏切り、群衆は「十字架につけろ」と叫んだのです。ですから、主イエスの御言葉に耳を傾けただけでは、神の家族となることはできないのです。
福音記者マタイは、主イエスが「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです(マタイ12:50)」と言われた、と記しています。
ですから、「神のみことばを聞いて行う」とは、「父のみこころを行う」事です。
それは、具体的にどの様な事でしょうか。本日も共に祈った「主の祈り」には、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。(マタイ6:10)」との祈りがあります。
「地で行われる」その場所とは、キリストの体である「教会」であり、「教会」とは「神の家族」です。
パウロはこう宣べています。「あなたがたは、・・・・・・神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エペソ2:19~20)」と。
さらにパウロは宣べています。「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(エペソ4:16)」と。
ですから神の「御心」とは、「教会」が「愛のうちに建てられる」事です。
主イエスは十字架の死を目前にした最後の晩餐のとき、その夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手拭いを取って腰にまとわれ、たらいの水で、弟子達の足を洗って、腰にまとった手拭いで、弟子達の足を拭いてくださいました。
そして主イエスはご自分を模範として、弟子達に、互いに足を洗い合う様に命じられました(ヨハネ13:1~15)。
そして主イエスは、このことを通して、新しい戒めを弟子達に与えられたのです。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」と。
また、主イエスは言われました。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと同じようにしなさい(マタイ20:28)」と。
「愛し合う」とは、具体的には「足を洗い合う」事、すなわち、「仕え合う」事であり、「互いを差別することなく、互いの違いを認め合い、助け合う」事です。
ですから、「父の御心を行う」とは、「愛し合い」「仕え合い」「互いを認め合う」事であり、それが神の家族の真の姿であり、キリストの体である教会の交わりです。
私達キリスト者は、「神の御言葉を聞いて行う者」「父の御心を行う者」として召され、互いを兄弟姉妹と呼び合う「神の家族」とされているのです。この恵みを心から感謝しましょう。
もうお気づきでしょうか。主イエスは、先のたとえの「百倍の実を結ぶ良い地」と、また本日のたとえ「隠れる事のない灯火」、即ち「世の光として輝く」のは、あなた方「神の家族」なのだ、と言っておられるのです。
私達キリスト者が、神の家族として、真に機能するならば、百倍の実を結び、この世の暗闇を照らす灯火となるのです。
真の神の家族として、世の光として、御霊によって輝く者、百倍の実を結ぶ者とならせていただきましょう。
