前回、私達は主イエスの御言葉によって嵐が静められた事件を通して、主イエスが全知全能の神、天地創造の神、生ける神の御子キリストであることの確信を深めました。
そして、この主イエスが私達の人生の主導権を握っておられ、私達の人生を最善に導いて下さるお方であり、インマヌエルの神である主イエスと共に生きることこそ幸いであることも確信致しました。
さて、本日は主イエスが悪霊に憑かれた人を悪霊から解放された事件を通して、さらにその確信を深められたいと願っています。
前回の人生の嵐は外側からのものでした。しかし、もっと恐ろしい嵐は、私達の内側に起こる嵐です。私達の心の中に起きる嵐です。
悪霊に憑かれた人の様子は、その悲惨な状況を見えるかたちにして、私達に見せています。
福音記者ルカは、悪霊に憑かれている人の状況がどのようであったのか、悪霊から解放されたその人がどの様に変わったのかを詳しく記しています。
「彼は、長い間服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。(27)」のです。裸で「墓場」に住んでいるのは異常な状況です。
「墓場」とは、人々にとっては「死の場所」であります。ですからこの悪霊に憑かれた人がいかに「絶望的な状況」にあったことがわかります。
そして、「汚れた霊はこの人を何回も捕らえていた。それで彼は鎖と足かせでつながれて監視されていたが、それらを断ち切っては、悪霊によって荒野に駆り立てられていた(29)」のです。福音記者マタイは「彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。(28)」と記し、福音記者マルコはその様子をさらに詳しく「もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることができなかった。それで、夜も昼も、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。(マルコ5:3~5)」と記しています。
この人が、自分で自分をどうすることもできなかった悲惨な状況の中で生きていたことが分かります。
ここで、注意すべきは、悪霊に憑かれることと、精神的な病や心の病とは区別されなければならないということです。
キリスト教世界でも「悪霊」についての本が多く出版された時期がありました。全てが間違っているわけではないのですが、何でもかんでも「悪霊」のせいにしてしまう危険性がありました。
確かに、聖書は「悪霊」の存在を教えています。本日の聖書箇所がその一つです。しかし、病と悪霊とは明確に区別しなければなりません。
そして、それは霊の賜物のない人の目によって区別することは難しいことです。特別に与えられた霊的な賜物がない人が軽々しく、その症状を見て「悪霊憑き」であるなどと言ってはなりません。それこそ、悪霊に惑わされてしまいます。
しかし、また一方で「悪霊」と言うと、現代の科学万能主義者や合理主義者は迷信として片付けてしまいます。また、その反対にテレビや雑誌等で面白可笑しく、また恐怖心を煽るようなオカルト的なものがあり、それにはまっている人達も多くいます。
しかし、ここで考えるべきことは、合理主義的な考えや、迷信的なオカルトものが、実はその裏で悪霊どもに操られていると理解しても間違いではないでしょう。
聖書は、はっきりと悪霊の存在を教えています。そして、オカルト的なもの、すなわち占いや呪術(まじない)等を禁止しています。
何故なら、それらによって、サタン、悪霊の餌食となるからです。ですから私達は、このことを軽んじるべきではありません。
聖書は、この世の罪はサタンの支配下(影響下)にある(エペソ2:2)と宣べており、私たちの戦いは血肉ではなく、霊の戦いである(エペソ6:12)と宣べています。
「悪霊」は、神に敵対するサタン(悪魔)<堕落した天使?(イザヤ14:12~15)>の支配下にあり、神から人を引き離して、人の心や体に働きかけ、精神的にも肉体的にも病的な状態をもたらす霊的存在です。
聖書には、主の御声に聞き従わず、高慢になったサウル王が悪い霊に悩まされたことが記されています。(Ⅰサムエル16:14~15)
パウロは、「空中の権威を持つ支配者<サタン>、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊(エペソ2:2)」と宣べ、「ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。(Ⅰテモテ4:1)」と警告しています。
ですから福音記者ルカは、悪霊憑きの人が何故、悪霊に憑かれてしまったのかを明らかにしてはいませんが、彼に罪がなくて、悪霊憑きになったのではなく、何らかのきっかけがあったのではないかと思います。
「悪霊」は、人間の罪性に働きかけます。自己中心、不満、怒り、憎しみ、心の傷等に。
しかし、いたずらに悪霊を恐れたり、その力を過大評価してはなりません。サタンや悪霊たちは、主イエスに対して何の力もありません。
悪霊達は主イエスを「いと高き神の子、イエスよ、(28)」と呼んでいます。
エルサレム教会の指導者であり、主イエスの兄弟ヤコブは「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。(ヤコブ2:19)」と宣べています。
では私達はどうでしょうか。もし悪霊達の方が、私達よりも、主イエスがどういうお方であるのかを良く知っているとしたら?
しかし、悪霊達が主イエスを「いと高き神の子よ。」と呼んでいるのは、信仰の故ではなく、主イエスがどの様なお方であるかを、敵として知る霊的存在であるからです。
使徒ペテロの「あなたは生ける神の子キリストです。(マタイ16:16)」と言った告白を、主イエスは「あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。(マタイ16:17)」と祝福されました。
私達は、「御霊によって、イエスは主と告白できる者(Ⅰコリント12:3)」とされていることを感謝し、その信仰をますます深められることを願いましょう。
さて、レギオン<6千人で編成されているローマ軍団>と名乗る大勢の悪霊達は「いと高き神の子、イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないで下さい。(28)」と恐怖に脅えています。
福音記者マタイは、悪霊達が「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。(マタイ 8:29)」とわめいていることを記しています。
「まだその時ではない」とは、終末のさばきの時(マタイ25:41、黙示19:2)のことです。彼等が終末の時、裁かれることは確定しているのです。
「悪霊どもは主イエスに、底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないようにと懇願した(31)」その「底知れぬ所」とは、その終末のさばきによる滅びの場所です。
しかし、「悔い改めなさい。神の御国が近づいたから(マタイ4:17)」と、主イエスが宣教を開始されたときから、終末、すなわち神の国の到来は始まっており、神のさばきも始まっているのです。その点で、悪霊達は勘違いをしています。
そして、彼等は主イエスに、豚に入ることを願い、さばきを逃れようとしましたが、結局、豚と共に溺れ死んだのです。
私達は、悪霊達よりも、主イエスを良く知る者です。
福音記者ルカが、嵐を静め、悪霊を追い出される主イエスを指し示し、「このお方はどの様なお方か」と問いかけていることに対して、私達は、御霊の助けによって、御言葉によって、はっきりと「あなたは生ける神の子キリストです。」と告白する者です。
そうでないならば、サタンの支配下にある悪霊に惑わされている世の人々と同じ様に、悪霊達が行うあらゆる不思議に惑わされてしまいます。
モーセとアロンが、パロの前で神の不思議な御業を見せたことを思い出しましょう。アロンの杖がパロと家臣の前に投げられると、それは蛇になりました。それに敵対するパロの呪術者たちも彼らの杖を投げると蛇になったのです。しかし、アロンの蛇<杖>は、彼らの蛇<杖>を飲み込んでしまいました(出エジプト7:10~12)。
悪霊は、人間を驚かせる不思議をある程度行うことができます。しかし、神の不思議な御業の前には、飲み込まれる蛇でしかないのです。
この世の中は、オカルト的なものが溢れ、それ等に毒されています。そして、予言が当たると評判の占いに夢中になっている人々がいます。しかし、先の事が予言されて、当たったからと言ってそれがどうだというのでしょうか。その予言によって、死が征服できるのでしょうか。私達が信じる神は永遠のいのちを与えるお方です。
現代の悪霊は、巧妙にこの世の人々を惑わせ、苦しめています。しかし、真の神を信じている私達は、この悪霊と戦わなければなりません。武器はただ一つ、「御霊の剣、すなわち神のことば(エペソ6:17)」です。
主イエスがどの様なお方であるかを本当に知る者であるなら、悪霊達の業に惑わされず、「いのちの御言葉」である神(ヨハネ1:1~3)、主イエスと共に歩む者であるはずです。
福音記者ルカは、悪霊憑きの人が悪霊から解放された事実を何度も繰り返し、記しています。(33、35、38)
しかし、この事件を目撃したゲラサ人(26)<異邦人>達は、悪霊に憑かれて、裸で暴れていた人が、主イエスによって悪霊から解放され、服を着て正気に返っているという素晴らしい事実を知っているにもかかわらず、主イエスに、「自分たちのところから出て行ってほしいと願った(37)」のです。
彼等は、その救いの奇蹟に驚きましたが、悪霊憑きの人が悪霊から解放されたこと、救われたことには何の関心もないのです。
彼等は、悪霊憑きの人が悪霊から開放されたことを喜ぶどころか、自分達の豚の被害、自分達の目先の損失だけに心が奪われています。
彼等は、主イエスの生ける神の御子としての御業には全く関心がなく、人が救われる事よりも、自分達<の幸か不幸か>にしか関心がないのです。
しかし、もし私達が、この事件に遭遇するなら、どのような反応をするでしょうか。
主イエスは、「一人の罪人が悔い改めるなら<救われるなら>、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。(ルカ15:10)」と言っておられます。
私達もまた同じ様に喜ばないでしょうか。
人間の罪に起因する、戦争、飢え、貧困、犯罪等、悪霊の思い通りに動かされているこの世界で、ひとりの人が救われることを喜ばないでしょうか。
私達は、神の愛の中で生かされ、互いに愛し合い、主イエスによって、一人でも多くの方々が救われる事を喜ぶ群れです。
この世のあらゆる悪霊の思い通りに動かされている人々が解放され、喜びを得る人が一人でも多く与えられることを、主イエスに願う者達です。
そして私達もまた、かつてはゲラサ人の様でありました。しかし、今、私達は、主イエスの十字架の愛によって、生かされている者です。
主イエスにいつまでもここにいて下さいと願い、主のものとされている恵みを感謝する者です。
さて、悪霊から解放された人が、主イエスのお供をしたいとしきりに願いました(38)が、主イエスは、彼に命じました。
「あなたの家に帰って、あなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。(39)」と。
「そこで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて町中に言い広めた(39)」のです。
彼は喜んで、主イエスの御言葉に従い、その救いの事実を多くの人々に証ししたのです。
貴方は今、貴方の救いが、悪霊から解放された人と同じ様に、どんなに大きな事を自分にして下さったかに驚き、喜んでいるでしょうか。
私達もまた、その人と同じ様に、主イエスを喜びとしているでしょうか。
でしたら、答えは一つです。
私達もまた、その人と同じ様に、主イエスに召されている事を新たに覚え、そして伝えて行きましょう。
