さあ、今日も前回からの続きです。
主イエスは弟子達に「さあ、湖の向こう岸に渡ろう(22)」と言われました。「それで弟子達は舟を出した。(22)」のです。
福音記者マルコは「群衆を後に残して、(マルコ 4:36)」と記しており、福音記者マタイは、「イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。(マタイ 8:18)」と記しています。ここでちょっと注目して欲しいのですが、イエス様は群衆がご自分の周りにいることが分かっているのに、向こう岸に行こうとされたんです。あれ?って思いませんか?
そして弟子達は、主イエスの御言葉に従ったのですが、彼らは主イエスに「あなたを慕い、あなたに癒しを求めて群がっている人々が大勢いるのに、どうして、あなたはその人達を捨てて、向こう岸に渡ろうとされるのか」とは問わなかったのです。
福音記者マタイは、向こう岸に渡ろうとする主イエスのお供をしたいと願い出た一人の律法学者に、主イエスが「人の子には枕するところもありません。(マタイ 8:20)」と答えられた事も記しています。ここに人間イエス様の悲哀、憔悴を思いますね。
その後、荒れ狂う大暴風で大波をかぶって、水浸しになっている船の中でも、ぐっすりと眠っておられる(23)主イエスから、群衆との関わりによって、どんなにお疲れであったかが理解出来ます。主イエスが、次から次へと押し寄せる群衆から逃れる為に舟に乗られたとしても不思議ではありません。
主イエスは神の御子であられますが、肉体の疲れを知る正真正銘の人間でもあります。おそらく弟子達も、主イエスのお疲れの様子を感じていたのではないでしょうか。
また弟子達が、主イエスの御言葉にただ従っていれば、何事もなく平穏無事かと言えば、そんな事はないという事も知らされます。
何故なら、彼等は、主イエスの御言葉通りに従ったにもかかわらず、一つの試練に遭うからです。しかしその試練は、彼らにとって、非常に重要な体験でした。この試練によって彼らは、自分達が従う主イエスがどのようなお方であるのかを知らされるからです。
同じ様に私達もまた、ここで明確に知るべき事は、私達は主イエスの御言葉に従うべきですが、だからと言って、私達の人生がいつも平穏無事であるとは限らないという事です。大変な試練に遭う事も現実にあります。
しかし、その事によって、私達は最も大切な事を知ることもできるのです。ですから結局、私達の人生は、主イエスにただ従うとき、最善のことがなされるのです。
さて、弟子達は船上で嵐に遭遇しました。しかし、ここで不思議に思うのは、弟子達の多くは漁師です。彼らは、自分たちが漁をするガリラヤ湖を良く知っていたはずであり、天候については動物的な勘が働いたはずです。
また、ガリラヤ湖は、周囲の山から吹き下ろす激しい風のために、度々嵐を起こしますので、湖を良く知る漁師達は、天候の安定した日でないと、湖の中心部まで乗り出すことはしないそうです。 福音記者マタイは「すると、見よ、」と表現しています。それは彼ら専門家にとっても思いがけない大暴風であったことを物語っています。
この嵐は、漁師の彼等が予測できなかったものであったことは間違いありません。そして、人間は、自分の力や経験などに頼っていると、いったんその力や経験を越えた予測のつかない事態に置かれると何もできなくなるようです。
ところが、あわてふためく弟子達と主イエスとはあまりに対照的です。舟は「水をかぶって危険になった(23)」ほどに水浸しになり、彼らが「私たちは死んでしまいます。(24)」と言ったくらいですから、その嵐のすごさが分かります。
それなのに、主イエスは弟子達に起こされるまで眠っておられたのですから、いくらお疲れになっておられたとは言え、主イエスのその眠りは普通では考えられません。普通の人間なら飛び起きるはずです。いくら疲れていても、人間は特別大変な状況の中では目覚めてしまうものです。しかし、主イエスは弟子達が起こさなければならないほど、熟睡しておられたのです。
弟子達の不安に押し潰されそうになっている姿と、主イエスの平安に満ちた姿とは、あまりにも対照的です。
父なる神を絶対的に信頼しているすごさが、人としての主イエスに見ることができます。
弟子達は主イエスに「近寄ってイエスを起こし、(24)」、必死に叫びました。「先生、先生、私たちは死んでしまいます(24)」と。
「主イエスに近寄って」と記されていますが、そんなに大きな舟ではありません。弟子達のすぐ側に主イエスは眠っておられたのです。
しかし、弟子達は、主イエスが共にいて下さることだけでは、平安はありませんでした。弟子達は、彼らの要求通り、主イエスに動いてもらわなければ満足できなかったのです。
福音記者マルコは、弟子達が主イエスに「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか(マルコ 4:38)」と苛立ちを隠さず、文句を言っていることを記しています。
また、「私たちは死んでしまいます」という弟子達の言葉は「もしかしたら」という可能性ではなく、今現にその状態にあるのです。
しかし、です。ここで、弟子達のおかしさがわかります。「私達が溺れて死にそうでも、何とも思われないのですか。」と彼等は主イエスに文句を言っているのですが、「溺れる」としたら、彼等だけではなく、主イエスも共に溺れる筈です。自分達だけではありません。
また、弟子達は「先生、先生。」(「主」ではなかった訳です)と主イエスに呼びかけています。ですから、主イエスが共にいて下さるのに、そのお方がどの様なお方かを分かっていないのです。主なる神が、共にいて下さる事の素晴らしさはまだ分かっていないのです。
この時点の彼等の主イエスに対する信仰は、「主なる神」を「主」とする信仰にまでに至っていなかったのです。
私達もまた、主イエスを知っています。いいえ、信じています。主イエスは「インマヌエル<神は私たちとともにおられる>(マタイ1:23)」の神です。
そして、主イエスご自身が、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と約束して下さっている事を知っています。いえ、信じています。
しかし、私達は、この嵐にあった弟子達と同じ様に、主イエスを真の神として信じているかどうかを問われると、現実の自分の信仰生活において、彼等と同じ様な信仰者ではないかと思わされるのです。
ではこの最後の場面から、私達が信じている主イエスはどの様なお方かを、しっかりと見つめましょう。
「イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。(24)」のです。「叱りつけられた(24)」という主イエスの御言葉は、風や湖が擬人化されていますが、詩篇104篇 7節でも「水は、あなたに叱られて逃げあなたの雷の声で急ぎ去りました。」と、水が擬人化されていますが、それは天地創造の神の御支配を表し、賛美しているのです。
ですから、主イエスが現実に「風と荒波とを叱りつけられた(24)」事は、主イエスが、天地創造の神であり、すべてのものを支配しておられる、権威あるお方であるということが明らかにされているのです。(参照;マタイ28:18)
弟子達は驚き恐れて互いに言いました。『お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。(25)』と。
この、「この方はどういうお方なのだろうか。」という疑問文は、その答えが分からなかった訳ではありません。
後に、主イエスが弟子達に「あなたがたは、わたしだれだと言いますか。(ルカ 9:20)」と質問されたとき、使徒ペテロが「神のキリストです。(ルカ 9:20)<あなたは、生ける神の子キリストです。(マタイ16:16)>」と答えています。
この時の弟子達の体験は、自分達が信じ従っているお方がどの様なお方であるかを確信する為の伏線の一つとなっている事は間違いありません。
ですから、この事件で語られている最も重要なことは、主イエスが嵐を静められたという奇蹟を知ることではなく、「私達が信じている主イエスとはどの様なお方か」を確信することなのです。私達は「主なる神」を「主」とする信仰を持っているかどうか、主イエスを「いつもともにいて下さるお方(マタイ28:20)」であり、「天地創造の神」であり、「生ける神の御子キリスト」であると、本当に信じているかどうかが問われているのです。
私達の人生には、多くの人生の海の嵐があります。しかし、私達は、その嵐の中に沈んでしまうのではなく、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ41:10)」と約束して下さっているインマヌエルの神を見上げる者でありたいと思います。
しかし、その為には、本気で「主なる神」を「主」とする信仰が必要です。天地創造の神、全知全能の神、全てを御支配される神を、本気で信じていなければ、インマヌエルの神の御言葉は、私達には空しい言葉でしかありません。
しかし、そう言われても、自分にはそのような強い信仰がないと落ち込む方がいらっしゃるかもしれません。
しかし、主イエスの弟子達も私達の信仰とそれほど変わらないことが、この事件で語られているではありませんか。
主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのですか(25)」と嘆かれましたが、だからと言って、弟子達を決して見捨ててはいません。
嵐を静められ、ご自分が「どの様なお方」であるかを弟子達に見せて下さったのです。私達にも、そうして下さるのです。
この事件は、私達の人生の海の嵐、神の与える試練は、私達が訓練によって人間的な強い信仰を持つ為ではなく、現実の私達がどんなに弱い者<信仰者>であるかを徹底的に知り、だからこそ、全てをご支配され、全てをご存じの神、主イエスに信頼して生きることの恵みを知る為なのです。
主イエスが「あなた方の信仰は何処にあるのです。」と言われたのは、信仰が無い、という意味ではなく、彼等の信仰のあり方を問うておられるのです。
信仰のあり方とは、自分を起点<中心>として神を見るのではなく、絶対主権の神の下にある自分を知る事です。自分は自分によって生きているのではなく、神によって、生かされている事を知る事です。
自分を起点とすると、状況が自分にとって悪いとき、何故神は、と問う様になります。またその悪い状況に支配され、埋没して、神を見失ってしまうのです。
そして嵐の中で、弟子達が主イエスに文句を言っていることは、確かに「不信仰」であると思いますが、驚くべき事に、主イエスは、ご自分に文句を言わせるほど、弟子達に、ご自分に対する自由さを与えて下さっているということに注目すべきです。
しかも、主イエスは、弟子達に眠りを妨げられた事について、怒ってはおられません。
私達の主イエスは、弟子達の弱さを、私たちの弱さを十分ご存じのお方(ヘブル2:17~18、4:15~16)です。その為にこそ、主イエスは人となられて、この地上に来られたのです。
私達キリスト者は、主イエスこそ、私達の人生の主導権を握っておられ、私達の人生を最善に導いて下さる方である事を確信しましょう。
決して、自分の人生に自分を中心に置いてはなりません。私達は、あまりにも自分が頼りにならない事を知らない者だからです。
ですから、「風も水もお命じになれば従う」主イエスに信頼して生きましょう。
「主なる神」を「主」とする信仰が与えられることを願いましょう。
私達が信じている主イエスは、「いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられる(ヘブル7:25)」お方です。
私達の信じる主イエスは「インマヌエル<神は私たちとともにおられる>」お方です。
私達は、このお方と共に、神から私達に与えられている人生を生きるのです。
私達の人生の海の嵐は、私達がこの素晴らしい主イエスの恵みを知る素晴らしい機会なのです。
ですから、恐れず、今日もまた一歩を踏み出しましょう。
