本日の箇所は先週の続きですが、このたとえ話は子ども礼拝でもよく扱われる、私達にとってなじみのあるたとえ話です。今日はこの箇所から聞いて行きましょう。
このたとえは、種が蒔かれた四種類の土地について語られ、またそのたとえの説明では四種類の人のことについて語られています。
「種」は「神のことば(11)」であり、「神の国の奥義(10)」のことです。「神の国の奥義」とは、「ことばは神であった(ヨハネ1:1)」主イエス御自身のことであって、具体的には、主イエスの十字架と復活による罪の贖い、すなわち「福音」のことです。
主イエス・キリストは「聞く耳のある者は聞きなさい(8)」と言われましたが、耳はすべての人が持っています。ですから、単に聞く事ではなく、相手に心を向けて聞くという事です。ここでは、主イエスに心を向けて聞く事です。
主イエスは群衆について「ほかの人たちには、たとえで話します。彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように。(10)」と言われましたが、これはイザヤ書6章9節から10節の引用であって、弟子達以外の者に対する厳しいことばです。
しかし、主イエスが故意に「神の国の奥義」を隠されたのではありません。預言者イザヤが「主よ、いつまでですか。(イザヤ6:11)」と質問したときに、「切り倒された木の残された切り株、聖なる裔」というみことばで、神の赦しの恵みが示されています。
それは、徹底的にさばきを受ける神の民は絶滅されるのではなく、「神の恵みの選び」すなわちイエスキリストが与えられている、という慰めです。
しかしまた、さばきの責任は神の側にあるのではなく、聞く者の側<態度>にあって、結果的にその預言が成就する事、(事実となる)ということなのです。この事実は人間の罪の本性(ほんせい)による悲劇です。
主イエスが多くの種<福音>を蒔かれたにもかかわらず、結果は神の民イスラエルの少数者しか実を結ばなかったからです。
では、私達はどうでしょうか。私達にも聞く耳がないことがあります。それは御言葉「聖書」を聞いても、心が神に向いていないなら、その御言葉は心に響きません。
毎週主日礼拝で語られる御言葉からのメッセージに対しても、自分が今、神の御前に出ているという意識がなく、神に対する畏れがない場合には、結局は神に従う心がないため、自分にとって良いものを求めているに過ぎず<人生の教訓>「いいお話だったわ」で終わってしまい、その人の生活に何の影響も及ぼさなくなってしまいます。
しかし、その人が真に神に向いているならば、神の御言葉を御言葉として受け取ることができ、その実を結ぶことができるのです。「神のことばは生きていて、力があり、両刃(もろは)の剣より鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができる(ヘブル4:12)」からです。
ですから、「聞く耳」すなわち「神に向いている心」が必要なのです。しかし、それは、人間の努力や知恵によるのではありません。御霊の導き、御霊の助けであることを忘れてはなりません。
さて、たとえの、四種類の土地、すなわち四種類の人達について見て行きましょう。
聞く者の態度として、第一に「道端」、第二に「岩の上<土の薄い岩地(マタイ13: 5)>」、第三に「茨の中」、第四に「良い地」があげられています。
パレスチナでは、日本のように丁寧に畑を耕し、種を植えるという習慣がないそうです。その畑は長く細い土地で、細い草の道で別れているのだそうです。これらの小道は、利用する人々の足で舗装道路のように堅く踏み固められています。種を蒔くと、いくらかがそこに落ちてしまうのです。また、ロバの背に置かれた種袋のすみに小さな穴を開け、行ったり来たりして種を落とす方法があるそうです。ですから、種はいろいろな場所に落ちるのです。
さて、第一の種は「道端」に落ちました。それは踏み固められた土地ですので、当然、その地に種が根付くことはなく、鳥の餌になるのです。
主イエスの説明では、悪魔にその種を持ち去られてしまう人達のことです。何故かと言うなら、自分を過信しているので心が神に向く事がなく、聞く耳を持たないのです。サタンに最も狙らわれ易い人達です。
第二の種は「岩の上<土の薄い岩地>」に落ちました。これは石灰岩が地層を覆っている土地のことだそうです。そこに落ちた種はすぐに芽を出しますが、土壌が浅く、水分を吸い込まないので根付かず、太陽の熱がその種を枯らしてしまうのです。
主イエスの説明では、困難や試練にぶつかるともろい人達です。何故なら、御言葉を感情や気分で信じただけであって、結局自分にとって良い事だけを求めている人です。主イエスの「愛」と「やさしさ」だけを求め、自分の罪性を見つめることのできない人です。しかし、自分の罪性を見つめられない人は、神の恵みの素晴らしさを真に知ることはできません。
神のさばきを真に受け取め、悔い改めた者が、神の恵み<十字架の罪の贖い>の如何に素晴らしいかを真に知る者となるのです。
第三の種は「茨の中」に落ちました。パレスチナの農夫は日本人のように丁寧ではなく、根のある雑草の上の部分だけを切り取ったり、燃やしたりするだけで、見た目はきれいになりますが、地面の下にその根はしっかりとあり、時が来るとその雑草は再生します。それがいばらであるなら、せっかく出てきた芽も成長したいばらにふさがれてしまいます。
主イエスの説明では、二心の人達のことです。片手で福音を受け、もう一方の片手はこの世の思い煩いと富や快楽を求めている人達のことです。
この世の思い煩いとは、仕事、住宅、子供のこと、将来、金銭、人間関係等です。短絡的にそれらのすべてが悪いことであるなどと言っているのではありません。要するにその信仰が中途半端であり、主に委ねる事ができない人です。
主イエスは言われました。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか・・・・・・ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国とその義をに求めなさい。そうすればこれらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:27、31~33)」と。
第四の種は「良い地」に落ちました。「良い地」とはどのような地でしょうか。
主イエスの説明では「立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結ぶ(15)」人です。
ではどうしたら、その良い地になれるのでしょうか?
私たちはついうっかり、「そうか。それなら、自分は良い地になろう!」と決意します。しかし、そのような人は、自分の真の性質が分かっていないのかも知れません。
実は、良い地とは、逆説的ですが自分が、第一、第二、第三の地であることを良く知っている人のことなのです。
それは「悔い改め」のできる人のことを意味します。「悔い改め」とは、神に向き直ることであり、神の光に照らされて、自分の罪(影)を知ることのできる人であり、自分をごまかさず、自分の姿を見つめることのできる人のことです。
預言者イザヤ(イザヤ 6: 5)は、まことにそのような人であり、使徒パウロ(ローマ 7:24)もそうでした。
また良い地とは「よく耕されている地」でなければなりません。何故なら、耕される事によって初めてその土が種を受入れやすい状態にされるからです。
ですから、悔い改めることは良く耕されるということなのです。それ故に、自己中心の罪から解放されて、神中心に生きることを願う人に成長させられるのです。
自分の自己中心というフィルターを通して、神の御言葉を聞くのではなく、聖霊の導きの中で御言葉を聞くことのできる人となるのです。
また、自分の真の姿を良く知る者、すなわち自分が、第四の土地ではなく、第一、第二、第三の地であることを良く知っているが故に、主イエスの「わたしにとどまりなさい(ヨハネ15: 4)」という命令に従い、実を結ぶことができるのです。
このたとえ話は、確かに私達キリスト者に自分の現実を気づかせてくれます。自分は第四の地(良い地)ではなく、第一(道端)、第二(岩の上)、第三(茨)の地ではないか、と。
しかし、安心して下さい。主イエスは弟子達<私達キリスト者>をさばくために、このたとえを話されたのではありません。
主イエスは、弟子達(私達キリスト者)に、「あなたがたは、どんなに素晴らしい恵みの中にいるかを知りなさい」と言っておられるのです。祝福してくださっているのです。
主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい。(8)」と叫ばれました。しかし、弟子達の現実は残念ながら、その聞く耳を持っていなかったのです。
その証拠は、主イエスから譬えの意味を説明されていることから分かります。「弟子達は、このたとえがどういう意味なのかをイエスに訪ね(9)」ていますね。
弟子達の現実は、第四の地(良い地)の人ではなかったのです。何故なら彼らは、主イエスの十字架の意味を最後まで理解できず、主イエスの復活後もこの世の栄光を求めていました。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。(使徒1:6)」と言って。
しかし、それなのに、主イエスは弟子達に対して「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されている(10)」と言っておられます。
福音記者マタイによれば、主イエスはさらに「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。(マタイ13:16)」と祝福しておられるのです。
しかしここで、弟子達の方が主イエスを見ていると勘違いしがちですが、本当は主イエスが弟子達を見ていて下さっているのです。弟子達が呼び集められた時も、弟子達が主イエスに近づいたのではなく、主イエスの方から弟子達に近づいて下さったことを思い出しましょう。この事実、これは「恵み」以外の何ものでもありません。
弟子達(私達キリスト者)に与えられた「天の御国の奥義」とは「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は神を愛する者たちにのために、神の備えてくださった(Ⅰコリント 2: 9)」ものです。
弟子達(私達キリスト者)が自分の力や知恵で勝ち取ったものではないのです。「ただ、神の恵み(ローマ 3:24、エペソ 2: 5)」であり、「神の賜物(エペソ 2: 8)」、すなわち「与えられたもの」です。
ですから私達キリスト者は、良い畑でなければならないのではなく、良い畑とされているという事実、この恵みを徹底的に知ることが大切です(エペソ 2:10)。
そして、成長させて下さるのは神(Ⅰコリント 3: 7)であることを知り、神の力、聖霊の働き(Ⅰコリント 2: 5~10)によらなければ何もなし得ないことを知るとき、私たちキリスト者は、この恵みに感謝し、ただ神に拠り頼む<すがりつく>ことによって、多くの実を結ぶことができるのです。
最後に、その良い地で結ぶ「実」とはどのような実であるか、を考えましょう。
主イエスは「しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。(15)」と言われました。それは「百倍の実(8)」です。
今年の冬季オリンピックでは、多くの日本人選手達の素晴らしい活躍を見る事が出来ました。スケ-トペアでは日本人としては、初めての金メダルを獲得した選手もいました。それは私達日本人に喜びと感動を与えてくれました。
しかし、血の滲む様な努力をしたにも拘わらず、メダルを獲得出来なかった選手もいました。
私達は、主イエスが言われた「百倍の実」を結ぶということを、人々から大賛辞を受ける金メダルを獲得することのように考えてはなりません。むしろ、人からの賛辞を受けるどころか、バッシングされても、自分の出来る限界まで努力した選手達の尊さを知る者でありたいと思います。
良い地に結ばれた実とは、この世の価値基準による成功のことではありません。誤解を恐れずに言うなら、逗子福音教会が大教会に成長することでもありません。この世の価値基準による評価とは全く次元の違う評価があることを知りたいと思います。
この世の価値基準による評価、すなわち成果(成功)は、どんなに素晴らしくても、一時的です。私達が見るべきものは、一時的な見えるものではなく、見えないもの(Ⅱコリント 4:18)、すなわち「永遠の実」です。
神による永遠の評価があることを忘れてはなりません。その評価の基準は、私達がどれだけ神に向かっているかです。
それは、「悔い改めの実」であり、神に耕されて、神に育てられ、実る「永遠の実」です。
そして私達が忘れてはならないことは、私達キリスト者は「義の栄冠(永遠の実)が用意されており、主を慕う者には、だれにでも授けて下さる(Ⅱテモテ 4: 8)」という約束です。
私達は、すでに選ばれて良い地に蒔かれて百倍の実を結ぶ者として召されているのです。
ですから喜んで、ますます「実を結ぶ者」として歩んで行きましょう!
