2026/3/22(日) 『ああ、恵み!』ルカの福音書7章36〜50節:村松 登志雄 牧師

先週までは、バプテスマのヨハネについて見て来ましたが、本日の箇所では主イエスが出会ったある女の人について宣べておられます。
それは主イエスを食事に招いた一人のパリサイ人の家での出来事から始まります。後に分かりますが、このパリサイ人はシモンという名でした。

では最初に、その主イエスを招いたパリサイ人シモンの様子<態度>を見てみましょう。
その頃 主イエスは、多くの人々から招待を受けていました。(参照;ルカ 5:29<レビ(マタイ)の招待>、10:38<マルタの招待>、11:37<一人のパリサイ人の食事への招待>、14::1<パリサイ派のある指導者の招待>)しかし、この時、主イエスはシモンを選んで食事に招かれました。
しかし、この時主イエスを招いたパリサイ人シモンの態度は、招待者、お客様をお招きする者の態度としては、実に失礼極まりないものでした。

そこで、主イエスは彼の招きについて、この後に登場する罪深い女性の態度と比較して、彼のその態度について言及しておられます。
「それから彼女の方を向き、シモンに言われた。『この女の人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。あなたはわたしの頭にオリ-ブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。(44~46)」と。

当時のユダヤ人社会では、サンダルの様な履物が一般的でしたので、来客があった時は、道路の埃で汚れた、来客の足を洗う為の水を用意するのは常識でありました。
そして、その家の主人は来客を歓迎する口づけをして迎え、特に来客が偉い人、ラビ<教師>等の場合には、それは尊敬のしるしとして欠かせないことでした。
また当時、香料も欠かせないものでした。パレスチナは暑い上に乾期があり、体を洗う水を確保するのが難しく、入浴の代わりに香水や香油を体に塗るのです。
また乾燥した気候により、乾燥する肌の為に香水や香油を使い、蚊やハエの対策や、空気を柔らかくする為にも香を漂わせ、特に来客の為に香油を一滴注ぐ事もなされていました。

ですから、パリサイ人シモンの主イエスに対する態度は、招待客に対して随分と礼儀を欠いたものであって、彼の主イエスに対する思いが読みとれるというものです。
彼はおそらくその町の名士として、その頃人々の評判となっている若いナザレ人、主イエスを招いたのでしょうが、評判となっているので招いたに過ぎず、心からの尊敬を持って招いたのではない事は、その事実が明らかにしています。
それどころか彼は、罪深い女が主イエスに対してする行為をそのまま受け入れている主イエスを見て、心の中で批判しています。「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから(39)」と。

次に、この「罪深い女」の様子を、見てみましょう。
「罪深い女」とは、婉曲的な表現で、売春婦を示す、と言われています。何故、この女性がシモンの家に来たのか、は、「すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。(37)」とルカが説明している様に、その噂を聞きつけたからです。

しかし、この罪深い女は、シモンにとっては招かざる客です。常識的には、当時のユダヤ人社会で、ユダヤ人として最も神の律法を厳格に守り、自他共に義人と認めるパリサイ人の家にこういった女性が入る事は許されない事でした。
ですから、この女性がその場所にいること自体が非常識な事だった訳です。

一体、何故、彼女は、主イエスの所に来て「うしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。(38)」のでしょう。
それは、主イエスが「この人は多くの罪を赦されています。(47)」と言われた、その恵みの福音を受け取っていたからなのです。

では彼女がいつこの恵みの福音を受け取ったのでしょう。ルカは説明していないのです。
しかし彼女は、自分と同じように、罪人として忌み嫌われている取税人レビ、すなわちマタイが、主イエスによって救われたのを見ていたのでしょう。
また、そのマタイの家に招待された主イエスが、ユダヤ人達が忌み嫌い、蔑視する罪人達と飲み食いしているのを見たパリサイ人が、それを批判したのに対して、主イエスが「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ 5:32)」と言われたのを聞いていたのでしょう。 

彼女がシモンの家に来た事だけでも驚くべき事です。彼女にとって、その場所に行く事は勇気が要る事であったでしょう。辛い事です。自分を忌み嫌い蔑視する冷たい視線に、自らを晒すことになるのですから。
しかし、それらをはねのけるだけの勇気、と言うより、主イエスに対する感謝の方が優った故ではなかったでしょうか。きっとそうせずにはいられなかったのです。
それまでの彼女は、自らも自分を罪人として断罪し、辛い人生を歩んでいたのでしょう。
しかし、主イエスの罪人に対する優しい眼差しと権威ある御言葉によって、彼女は、主イエスの恵みの福音を受け取ったのでしょう。
このように、昔も今も、自分の罪を自覚する者だけが、恵みの福音を受け取る事が出来るのです。
彼女の主イエスに対する行為(38)は、その恵みへの応答です。感謝、感激、の応答です。自分に出来る最高のものを献げる、主イエスへの愛の現れです。
彼女が「その足に口づけした(38)」のは、単なる尊敬を表す行為ではなく、彼女の精一杯の礼拝行為だったのです。
当時の習慣の食卓の姿勢は、頭を食卓側に置き、半分くらい横になって、左腕の下にクッションを当て、自由に動かす事の出来る右腕で食事を取ったのです。
この横になった姿勢の主イエスに、彼女は「うしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。(38)」のです。

さて主イエスが、その彼女の行為を受け取っておられるご自分のことを、心の中で批判するシモンのことを見抜いて、シモンに実に分かり易いたとえを話され、問われました。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。(41~42)」と。
シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答え、
主イエスは言われました。「貴方の判断は当たっています。(43)」と言われました。

そして主イエスは、たった今シモンが答えた事の具体的な事実を、罪深い女の方を向いて、シモンに言われました。
「『この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入ってきたとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入ってきた時から、わたしの足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭にオリ-ブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。』(44~46)」と言って。

続けて主イエスは言われました。「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。(47)」と。

しかしここで、この主イエスが「多く愛したから」と言われた事を、数多く愛したからという功績によるのだと間違えてはなりません。
何故なら、たとえの金貸しの「帳消しにしてやった(42)」という言葉の原語(<ギ>カリゾーマイ)の意味は「恵む」だからです。
この赦しの宣言は、「恵みによる罪の赦し」の宣言です。だから、彼女の行為に対する対価ではないのです。
しかし彼女は、その罪の自覚が深かったが故に、その恵みへの応答もまた深かったのです。
実に、罪の自覚の度合いは、恵みへの応答、感謝に正比例するものです。自分の罪深さを知れば知るほど、恵みに対して、『ああ、ありがたい』と感謝が大きくなります。

マタイの福音書18章21節から35節に、主イエスのたとえ話があります。
その内容は、一万タラントの借金(現在の貨幣に換算すると約6000億円で、人間一人が返済出来る額ではない)を赦された僕が、その僕から百デナリ(当時の1日の賃金が1デナリ、百日分の賃金、1タラントは6000デナリ)借りた人を赦さなかったお話しです。
この赦さなかった僕と、パリサイ人シモンに、共通点があります。それは、自分の罪の自覚が無いことです。
主イエスの問いに対するシモンの答えは「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います。(43)」でしたが、この「帳消しにしてもらった」の原語の意味もまた「恵まれた」なのです。

そして、「より多く帳消しにしてもらった」どころか、一万タラントすなわち、途方もない借金を帳消しにしてもらった(赦された)僕なのに、その重みを少しも感じていないのです。シモンもまた同じです。
ですから「より多く帳消しにしてもらった」というは、赦してもらった本人の自覚の事です。

さてここで、私達自身のことを考えてみましょう。
私たちキリスト者は、自分もまた、この罪深い女と同じであると思いたいのですよね。
しかしどうでしょう。時にまるで「恵みを知らない」いいえ「恵みを忘れている」ことがあるのではないでしょうか。このパリサイ人シモンと同じ穴の狢になっている事があるのではないでしょうか。

その証拠に、私達はよく人を批判してしまいます。主イエスの御言葉「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。(マタイ 7: 1~ 2)」という戒めを、いとも簡単に破ってしまう者です。

誰かの事ではありません。私自身その様な罪深い者です。私自身、どれほど、この罪深い女性の様に、主イエスの恵みを深く感じているだろうか、と問われます。

この後、教会福音賛美歌「イエスの深い愛と」を賛美しますが、この賛美は、聖歌593番「ああ恵み」の改訳で、前の歌詞では、繰り返しの歌詞は、「ああ恵み!計り知れぬ恵み ああ恵み!我にさえ及べり!」でした。その恵みは、私にも及んでいる、という意味です。私はこの賛美が大好きです。
そしてその「我にさえ及べり! 」を本当に自覚しているのか、と問われます。

しかし主イエスは、それほどまでに罪深く、鈍く、愚かな私達の為に、十字架の死によって、私達の罪を贖って下さったのです。そしてその死からの勝利を示す「復活」によって、死をもたらす罪に支配されていた惨めな私達を勝利の道に導いて下さったのです。

私達キリスト者が、心に銘記しなければならない事は、救いは勿論の事、救われてからも、キリスト者生活の一切のことは、徹頭徹尾、恵みによるのである事、決して自分の功績の入り込む隙などないという事を決して忘れてはならない事です。

その為には、赦されていますが、その計り知れない恵みを受けなければならなかった、自分の罪の深さは決して忘れてはならないのです。この女性のように!
何故なら、主イエスは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人達のものだからです。(マタイ 5: 3)」と言われたからです。
「心の貧しい者」とは、「自分の罪深さを知っている者」のことであり、キリスト者はその自覚の上に、「謙遜」という品格を身に着ける事が出来るからです。

ああ、今、私達はどれほど、主イエスに感謝を献げている者でしょうか。この女性のように、涙を流すほどに、そして口づけを止めないほどに、主イエスを愛し、その恵みに応答している者でしょうか。
その恵みを受け取ったなら、さあ今、堂々と顔を上げ、主を賛美してまいりましょう!